”アルツハイマー病 真実と終焉”にあったこの部分、
瞑想の実践者はストレスレベルが低下、海馬容積が増加
私自身は、少なくとも「ストレスは認知症の敵だ」と言っても言いすぎではない、と考えています。母を見るにそう思えてならないのです。
母は感情の抑制がとても苦手なタイプでした。もちろん、認知症、いや、その初期症状(MCI)が疑われるに至るずっと以前から。元来持ち合わせていた性格上、そもそもストレスを抱えやすい性分だったように思えるのです。
ご近所・他人との比較ばかりをしていた母、人の陰口ばかりを言っていた母、何かあればすべて他人のせいにしていた母・・・。
そのような性格だとどうでしょう?寧ろストレスがかかりやすい、と言えるのではないでしょうか。
いつも、他人が気になる、逆に他人の自分を見る目が気になる、陰口それ自体も何らかの外的ストレスがかかった故の一つの防御、もしくは攻撃反応として現れていたものなのかもしれません。
いや、単純にこう考えみたらどうでしょう。全く他人が気にならない、他人の目も気にならない、陰口?何それ?という性格だとしたら?
ストレス的にどちらが性格上より大きな負荷がかかりやすいか。
それは明らか、だと思うのです。
これは母、という特定の一人格だけのことではありません。人は大なり小なりストレスを抱えているはずで、人と接する機会のより多い社会人の方がストレスに見舞われるケースがさらに多いのかもしれません。
ストレスのかかりやすい人、それを感じやすい人、より多くの負荷がかかってしまう人、それは個性です。問題は決してそこではなく、どうやってそのストレスをかわすか、軽減するか、にあります。
母は、その昔、和裁を得意としていました。想像ですが、黙々と一心不乱に縫い仕立てていく、それに集中している時の母に、ストレスは無かったのだと思います。
何か集中できる趣味、のようなものがあること。確かに、それは一つのストレス軽減法なのかもしれません。
あるいは、ジョギングをする、泳ぐ、などのスポーツもそうなのでしょう。
何のことはない、そこで私は気づくのです。認知症に関わる話の中で、度々登場してくること、引きこもりにならない、コミュニティとのつながりを保つ、絵を描く、カラオケに行く、皆で体操をする、楽器を奏でる、写経をする、あれ、これ、それ、皆ストレスとつながりがあると。
フィジカル面での衰えを抑制するために推奨されている事も、その側面にはストレス軽減という効果も同時に期待されているのでは、と。
なれば、やはり一番大切なのは、何かをするか、しないか、そこに絞られてくる、絞られてしまう。
お年寄りは意固地だから、と聞きますが、果たしてそうかな、と思います。若くても、意固地な人は意固地でしょう、と。
意固地か意固地でないか、ではなく、とどのつまり、一歩踏み出すか、踏み出さないか、何気ないその一歩が究極の選択にもなるうる、と今の私には強く思えるのです。
以前母の前で読み上げた、私の思いを綴った手紙。その中で引用したあの話。
『ある男が家にいるとひどい風がやってきた。しばらくすると家が浸水した。誰かが玄関までやってきて、車で高台まで連れて行ってくれると言う。男はこう言った”神様が何とかしてくれるさ”。数時間後、洪水が男の家の1階部分を飲み込んだ。するとボートが通りかかり、船⻑が安全なところへ避難させてくれると言う。男は断った。”神様が何とかしてくれるさ”。さらに数時間後、男の家は完全に水に浸かり、屋根の上にいると、今度はヘリコプターがやってきて、パイロットが陸地まで連れて行ってくれると言う。またもや男性は断って、神様が何とかしてくれる、と言った。その後すぐに男は水にさらわれ、あの世で神の前に立つと、自分の運命について抗議した。”信じていれば救ってくれると約束したじゃないですか”。すると神は、こう言った。”車で迎えに行かせたし、ボートを送ったし、ヘリコプターも派遣した。死んだのはおまえ自身のせいだ。神は自ら助くる者を助く。』
-神は(天は)自ら助くる者を助く-、この言葉自体については、サミュエル・スマイルズの『自助論』の序文に取り上げられ、”他人に頼ることなく、自ら努力する者に天の助けがある/頼ってばかりでは幸せは来ない”との理解が一般的なようです。
が、そもそもの出典ははっきりせず、ラテン語以来のことわざでイソップの童話にも引用されているといいます。
(挿絵および例文ソース: COMMENTARY: God Helps Those Who Help Themselves – CHARACTER COUNTS!)
私はその逸話を、私なりに解釈し母に伝えた。差し伸べた手を掴むのか掴まないのか、それは母さん、あなたなのだよ、と。そして、その手を差し伸べたのが、もし天国にいる父さんだったら・・・それでもあなたはその手を掴まないのか、と。
母は掴まなかった。いや、私の言葉自体が伝わらなかった。そして、私がそう伝えたこと自体を、その日のうちに忘れていた。
何気なく目前に表れたいくつかの選択場面。まさかそれがその後の大きな分岐点になるであろう事など誰に想像できるでしょう。
ああ、これは分岐点だな、と確認の上選択するチャンスに恵まれることなどそう簡単にあることでしょうか?
まずは選択するのです、一歩踏み出すのです、踏み出さねば、はっきりしていることは一つ。何も変わらない、のです。
ただ、それが認知症の方となると状況・環境が少々異なります。
どうやって(そもそも会話の通じづらい)認知症の方をその方向に誘導していくのか。それが現代の、そして近未来の大きな課題になっているのだと思います。
今、認知症介助士のテキストをマイペースながら読み進めています。丁度、実践編に入ったところですが果たしてその中に「誘導の仕方」が載っているのか。載っているのならまさに大当たり、となるのですが・・・。
たとえ話であるにせよ、あの逸話の意味するところ、それが私の勝手な解釈であるにせよ、母がその手を握る手助けを課せられているはずの私が、それを全うできなかった、という私自身にかかるストレス、その軽減法が見つかる日は来ないのかもしれません。
それでも、一時的にそれを回避する術なら私自身に元来備わる楽天的な性格とも相まって持ち合わせないものではありません。
イラッときたら深呼吸。何度か聞いたことありませんか?
先にあげた、私たちにとっての、様々なレクリエーション、コミュニケーション、趣味、エクササイズ、それにもう一つストレス軽減法/回避法を付け加えるとすれば、それは「瞑想」だと思うのです。
深呼吸と瞑想、何?
実は私にとり、瞑想とは呼吸なのです。
(後編につづく)