それ 認知症かも

認知力の衰えを頑なに否定する年老いた母。それを反面教師に自らのこれからを考える息子。

”認知症「不可解な行動」には理由がある” を母の行動と照らし合わせてみる(前編)

 今回は、この↓中で、

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日曜日が明けても私はもがいていた。蓄積された負のエネルギーは抜けることなくたまったままだ。このまま母にご機嫌伺いの電話でもかけようものなら、思いの丈を叫んでしまうかもしれない。本棚にある積ん読本を一冊手に取り、スタバに行った。

結果を言えば、その本を読むことで、なんとか心の整理をつけた。(その本についてはまた別の機会に・・・)

家に戻り、今度は4キロ程ウォーキング。自分では落ち着けたつもりだが、ご機嫌伺いの会話の行き場によってはどうなるかは自信がない。

と記した”心の整理をつけた一冊”についてです。

認知症「不可解な行動」には理由がある

7章からなる本ですが、新書版で割とコンパクト。ですが、特に第3章~5章は、認知症の人の、介護者・周囲から見れば「不可解な行動」- その裏にどのような理由があるのか、その「行動」についての説明と、手短ながら対処するヒントも併せて記されています。

ケース1~ケース7に分けられた「不可解な行動」。認知症の進行度合いが軽度から重度に進行するに従い見られがちな「行動」がおおよそ順序立てて掲げられているようにも見える。

ああ、うちの母親or父親もそうだ、と思い当たるケースがあれば、その箇所だけ拾い読みもよし、もしもこんな行動が将来起きたら、と心の準備にor何某かの参考にするのもよし、そんな本なのだと思う。

 

修行の足らぬ、短気で熱くなりやすい、情緒の高まりを整理する(興奮を沈静化する)のに時間を要したり、それを引きずってしまいがちな私のような者には、時々に心落ち着かせる一つの手助けになってきた。

果たして、母のあの行動はなんなのか、何か意味があるのか、今後どのような「不可解な行動」が現れる”可能性”があるのか、最近この本を手に取ることが多くなってきた気がする。

 

私の母のこれまで、そして現在を、この本にあるそれぞれのケースに照らし合わせたところ含め、書き留めておきます。

今回は、私の母の状況が特に当てはまると思われるケース1~ケース5までを、そしてケース6~15は次回に、それぞれのケースを参照しながら母の病状を整理しておきたいと思います。

 

まずその前に、第7章中心に医師である著者がその主張を綴っている部分をそのまま抽出しておきます。
 

家族は互いに期待する役割を果たせずにいると破城に向かう。介護する人とされる人、本来は対等の関係が望ましいが、それは非常に難しい。

 

報酬や遺産は介護という「行為」への返報とはなっても、介護する「気持ち」への返報にはならない。このような心理的負担感ある状態で介護が続けば、介護される人は負債感を通り越して苦痛を感じるようになる。そして介護という行為が自分に苦痛を与えるもの、自分を支配するものと映り、介護する人にコントロールされているように感じてしまう。

 

介護する人は相手からの返報が期待できないために、介護する人も、次第に「報われない」と感じるようになっていく。そして、愛情や思いやりから始まったはずの行為、すなわちケアが、愛情のない単なる行為になっていく。こうなると何のために介護しているのかわからなくなり、介護する人もまた、介護される人に束縛され、自由を奪われ、コントロールされていると感じるようになる。

 

介護は家族にされてこそ幸せだ、親や配偶者の介護をするのは、家族の愛情の表れだ、親や配偶者の介護を辛いと感じてはならない、というのは家族介護の神話であり事実ではない。

建前・神話にとらわれていると、する人もされる人もネガティブな感情を表に出すことができず、不満が蓄積し、やがて爆発してしまう。する側は自分を責め不満を呑み込む。される側も不満を呑み込む。その状態が長く続けば、両者の間にあるのはケアではなく、コントロールだけになってしまう。行き着く先は虐待、心中、介護殺人などだ。

 

そうならぬためには、家族介護の神話を打ち破ること、具体的には、介護の関係に他者を入れることが重要。社会的サポートを受け入れ、ケアがコントロールに変わってしまわないようにすることが肝心。

 

ケース1
外出しなくなった、趣味を楽しまなくなった、本や新聞を読まなくなった、友達にも会おうとしない
アルツハイマー型認知症の初期、煩雑に見られる一症状、意欲障害。原因は作動記憶(ワーキング・メモリ)の機能低下。この段階ではそれが認知症だと周囲の人は気づかない。何もしない状態が続けば作動記憶機能は低下、認知機能は衰える。
 
母の場合;大部分が該当
サスペンスものが好きだった母。よく読んでいたその手の小説・文庫本はおろか、TVのシリーズものなど含め、読むことも見ることも2〜3年前頃からパッタリなくなった。本は「字が小さくて読みにくい・目が疲れるから」、TVは「あとで思い出して怖くなるから」と言っていたが、実のところはあらすじが・前後関係がわからなくて面白くない、のではと私は疑っていた。

もともと出不精で外出の少ない母であったが、本人称するところの友達も、その陰口ばかり聞かされていたので果たして友達がいるのか、それ自体不明ではあった。

著者のあげた、水戸黄門が高齢者に人気だった理由、には至極納得出来る。


 
ケース2
料理ができない、部屋の隅にガラクタをため込んでいる、やたらに小銭がいっぱいある、約束を忘れる
作動記憶機能低下で分割的注意が低下。したばかりの約束を忘れるのは、忘れたのではなく記銘力低下で覚えられない。
 
母の場合;一部該当
朝の味噌汁だけは作っていると言うのが口癖の母。帰省した折にはそれも確認済みだが、一人暮らしで果たして本当に毎日そうしているのかはわからない。足腰弱いのでこまめに掃除機をかけることはないが、ガラクタをため込んでいるようには見えない。食料品は生協宅配で料金引き落とし、買い物自体のチャンス少ないこともあり小銭のため込みはないはず。

ただし、約束忘れは日常茶飯事。メモ書きもしない。著者に言わせれば、そのメモに書く、ということ自体約束の類で、それ自体を覚えていないのだ、となるのかもしれない。

このケースで、著者が特に強調していることがある。それは、『怒ってはいけない』ということ。

家族は、怒ったり・責めたりしながらも想いが伝わっていると考えがちだが、当人にその心は読めず、家族の真の気持ちも伝わらず、ただ怒られた、責められた、ことだけ記憶に残る

”身に覚えのないこと”で責められる人の気持ちになって不安に寄り添ってほしい

f:id:masakahontoni:20190130174832j:plainと著者は訴えている。確かに、我々取り巻きは、ついつい感情に走ってしまいがち。空気読め、以心伝心、言わずともわかりあえる、なんていう単語だけが飛び交うこの国で、まして相手は肉親だ。ついつい血が上って、ということは往往にしてある。それでも言うは易く行うは難し。介護者にはかなりの修行が必要な部分ではなかろうか、私には自信がない。
 
 
ケース3
同じことを何度も言う、人の話を聞かない、同じものを何度も買って来る、冷蔵庫に同じものばかりが入っている、旅館で自分の部屋がわからなくなる、買い物に行って迷子になる
記銘力低下で言ったことを覚えていない。作動記憶低下で沢山の情報を処理できない。一つ頭に浮かぶと、それだけを繰り返し思い出す。分割的注意低下で同時にあちこちに注意を向けられない。他人の様子に注意向かず、会話の流れと関係なく言いたいことだけ言い、やりたいことだけをする。
 
母の場合;ほぼ完全に一致
同じことを何度も言い・聞き、ともすれば人の話には上の空(のように見える)母。冷凍庫が溢れ、同じものが入っている。

包括さんからの報告では、脳活の集いに行く度、いつもトイレから戻ってこれないらしい。これは指摘されている”旅館で部屋が”のケースに相当すると思われる。買い物、かかりつけ医(至近)から戻ってこられない、という事は(まだ)無いようだが、これも近い将来起こりえることなのかもしれない。

実際、著者の次のアドバイスに私は随分助けられている。

認知症の人は、話を遮られたり怒られたり無視されたりすると、自分が否定された気持ちだけ残る。それが繰り返されると「学習性無力感」に陥ってしまうことがある。何をしても無駄だ、思い通りにはならない、と学習してしまい、無力感にとらわれる。認知症の人の介護の基本は「要求の受容と傾聴」。過酷だが、心に刻んでおくべき。同じことを繰り返す場合は、興味を別の所に向けるようにする。同じものが冷蔵庫に入っている場合は、時々チェックして捨てればよい。

 
 
ケース4
いつも何かを探している、金を盗んだ、と責める、浮気してるんだろう、と疑う
記銘力低下。探し物をしていたこと自体覚えていないので、記憶力が悪いとは思っていない。

自己否定をしないのは人間の本能、そのような場面には自己防衛働き、自己肯定方向に認知を変える。なくしたのは自分、とは認め難いが、盗まれたと考えれば、悪いのは盗んだ人で自分ではない、という自己肯定になる。

情報が事実か想像かを判断する認知機能「リアリティ・モニタリング」がうまく働かず、想像と事実の区別がつかない。

もの盗られ妄想・嫉妬妄想は比較的早い段階から見られる症状。本来最も大切にすべき人に、そう言い放ってしまうのは、抑制がきかず、相手の心を図れず、セルフ・モニタリング働かないことが原因。自己欲求の満足だけに注意が向き、相手との関係性を考えない。

 
母の場合;一部一致
いつも何かを探している - そのまま。場合によっては、5分前に見つかったものを、10分後にはまた探しているのが母。2ヶ月にわたる骨折入院を終えて、退院後帰宅して直後、その様を目の当たりにした症状でもありました。幸いもの盗られ妄想は(まだ)無い。父は早くに亡くなっているので嫉妬妄想は無い。

著者はここで『反論してはいけない』と繰り返している。

妄想状態時は興奮しているため、かえって興奮させたり、状態悪化につながる。興奮を静める為、否定しないことが大事で、耳を傾け、共感的な態度で接するように。

これもまた、かなりの忍耐・修行が必要だ。一時から比べれば私も平静を保てる時間が長くなってはいるが、それをずっと続けられているわけではない。
 
 
ケース5
世話してくれる人につきまとう、記憶力が悪くなっていることを認めない、病院に連れて行こうとすると拒否する
老化とともに暮らしも単純化、記憶に障害あっても気づかぬ内に病状進行、結局は症状に気づけなくなる。認知機能低下でメタ認知できずメタ記憶も働かなくなる。
 
母の場合;ほぼ一致
つきまといは無い。病院拒否については・・・100%該当。物忘れが多くなったとは自覚しているが、(当人口癖の如く)歳をとれば皆一緒、私も同じ、むしろ、私は人より元気で医者いらず、と心の底では思っているのではないか?

病院受診拒否について著者のアドバイスは、

無理に連れて行くと鬱傾向になってしまうこと有り。健康診断だと連れて行っても、現状、前出のような認知機能検査をせざるを得ない。自分の頭が試されていることが本人にもわかる為、どうしても傷ついてしまう。かかりつけ医という”権威ある人”から勧めてもらうことでうまくいくこともある。

だが、当家のケースにはなかなか難しい。その”行く”という行為が難しいのだ。このようなシステムがあったらいいのに、と私が今切に望むのは、訪問医療だ。地域よっては行っている施設もあるとは聞いている。そして今でも疑問なのは、認知症ケアパス、とはなんぞや、ということだ。

そして、幸運にも”行く”事ができたとしてもまだ安心はできない。ある程度認知力がある私の母のような者には、そこが何をする施設で自分が何を診られているのかわかってしまうからだ。
著者も冒頭でこの点に触れている部分あり、

現行、記憶検査、認知症検査は自分の頭が試されているとはっきりわかる口頭質問が行われ受診者が思い悩む。MRI、尿・血液、脳脊髄液中タンパク質、遺伝子などのバイオマーカーによる診断が将来は主になり、検査受けただけで本人が不安になる事態は避けられるようになるかも。

と記している。定期健康診断に所謂認知症検査を含め、発症前にその兆候/リスクを探ろうとする施策についての話が未だこの国で表面化していないことに、大きな不安を感ずるのは私だけだろうか?認知症介助士の薄い教本(冊子のページ数が少ない、という意)程度のことは義務教育でもれなく人々が知っておいてもいいのでは、とさえ思う。世界トップクラスの長寿国、80歳代の半数が何らかの認知症状態にある国、今やもう人ごとでなく自らのこととして考える人がもっと増えていなければならないのに、そう思っている。

-後編につづく-