「真坂さん、お母様からお電話です」
受話器を取る、
向こうから母の泣き声が聞こえる、
「泣いていたんじゃ分からないよ、どうした?」
周りの者が振り返り、心配そうに私を見つめる、
「お父さんが・・・お父さんが、今・・・」
私はその声にならない声から察した
「わかった、これからそちらへ行くよ」
皆にその事実だけを伝え、部屋を出、No.2の取締役の元へ向かい、
父が亡くなったのでこれから実家へ向かいます。今後のことについてはまたお電話いたします
と伝え会社を後にした。
その後のことは良く覚えていない。
記憶にあるのは、父の冷たくなった身体を拭く私、火葬場でぼんやりと棺を見つめる私、親戚方々をマイクロバスに乗せ霊園から戻る私、ぐらい、全て断片的なものだ。
それでも、なぜかはっきりと記憶に残っている場面がある。
そこには、母と私、目の前に座った医師。
「どうなさいますか」
と医師の尋ねる声が静かな部屋の中で発せられる。
私の左側の視界の外で、私の方を伺う母の気配が十分すぎるほど分かった。
ああ、こういうものなんだ、そういうことになるんだ、そうなんだ、
今どう思い起こしても、そのとき私は”動転”などとはほど遠い状態にあった。
そして、医師の口ぶりをまねるわけでもなく、どこで学んだかというような無機質な響きで
「そのままの状態でお願いします」
という”様な”ことを言ってのけた、と記憶している。
そして、前後不明確ながら、はっきりと焼き付いていることがある。父の臥せるベッドまで見舞った時のこと、身体の動かぬ父と互いに目が合った、あの時。
あのとき父はなにを思ったのだろう。
何かを悟ったのだろうか。
父の目はなにも語らなかった、いや、私にはそれがわからなかった。
父さん、あの時、俺になにを言いたかった?
偶に、そんなことを想う時がある。
時は経ち、今、巡り巡って、こんなことになっている。
父さん、今ならもうわかっているでしょう?
母さんのこれからについて、先頭に立つに最も不適なのが俺だと。
そうは思わないか、父さん。
いいんですか、それで?
でも、もう話は進み始めてる。
止めたいなら、天誅でも何でも下してかまわないんだよ、父さん。
”三者会談”から後の時間軸は非常に曖昧で、ぼんやりとしか覚えていない、
今になって考えれば、さほどの時間もたたぬうちに起きた、死という出来事だったに違いない。
その後の断片的記憶、オフィスに電話があり、実家へ向かい、父が母と数十年間を過ごした居間に横たわるその父の身体を拭き、火葬場で棺を見つめ、霊園からマイクロバスで戻った、それぐらいしか私の中には残影がない。
ただただ、私から消えることのないもの、それは、あの部屋、母と私、向かい合って座る医師。
それは、私がそれを決めたのだ、という事実。
それは、あの時私と合わせた父の目。
それは、もう何十年も前のこと。
母は、父がALSだったことも、どこに入院したのかも今はもう覚えてはいない。
「そういえば、お父さん、何で死んじゃったのかねぇ」と今でも母は時々つぶやく。
「ALSだよ」と言っても、「そうだったのかねぇ」と遠くを見つめるだけだ。
もちろん、あの部屋で何があったかも全く覚えていないのだろう。
そして、度ごとに、あれはああするしかなかったよね、あれでよかったんだよね、としきりに尋ねかけてきたあの頃の母も今はもうどこにもいない。
母さん、忘れる、っていうのも悪いことばかりでもない、と私は思うよ。
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正直、私はこの書き込みを今ALSに関わる方々に読んではほしくありません。
でも、認知症を心配する方々、には考えて頂くきっかけになればという気持ちはあります。
アドバンス・ケア・プランニング(ACP)という話題が最近取り上げられているようですが;
ACPそもそもの(元来の)意味合いを、強引に認知症と結びつけようとするのではありません。
ただ、そうなったときにどうするか、を考えることは、すなわち、少なくとも認知症、という話題に限って言えば、そうならないためにどうするのかも含め、何十年も前からより切実な問題として、自らのこれからを考えるきっかけになるのでは、と願っています。