「お願いします、いっしょに行って下さい、母さん!」
畳に正座し土下座する私に母が言葉を浴びせる
「あんたなんかとはもう縁を切りたいんだ!もう、私にかまわないで。いざとなったら自殺でもするからいい!」
あれが分岐点だ。それを疑う気持ちは微塵もない。
2016年11月末、実家の居間で転倒骨折、母は救急病院へ搬送された。
同年12月地域のT病院に転院、同月中旬に手術。
翌2017年2月上旬に退院。
久しぶりに実家へ戻った母が、ガス赤外線ストーブ(否ファンヒーター)をつけようとした時、発した言葉は
「あれぇ、このストーブ、電源ケーブルがない、どこへいったんだろう」
だった。
入院中、私は毎週母を見舞った。そこにいたのは先週いつどんな話をしたのか忘れていた母だった。
「母さん、正直、骨折のこと、何の心配もしてないんだ。時間があれば遅かれ早かれ直ると思うよ」
「そんなことより、三食昼寝付きのこの環境で、骨折した部分以外の身体とか頭とか、そちらが衰えてしまうことの方がよほど心配だよ」
毎週口癖のようにそう伝え、本がいいよ、日記がいいよ、体を動かしたほうがいいよ、と様々な雑誌、書籍を持ち込み激励した。でも、母は何もしなかった。
それは、見舞いに訪れた私の目に映る母の姿、櫛も入れず寝癖のついた髪をそのままに、ぼーっと、うつらうつらしながら、ベッドでごろごろしている姿、それがその日常全てを物語っていた。
何月何日の夕刻帰るからね、とあらかじめ電話しても、
「未だ帰ってこないけど、何かあったの」
と1日前に問いかけの電話をしてくること二三度あり、これはおかしい、という出来事は、入院前-2016年秋頃からあった。
母が入院、という事態になり、元来から母が持つ「結局何もしない」性分、入院前から表れていた「物忘れ」症状、この二つが相乗的に母をさらに蝕むことになり、そこへさらなる運動不足で足腰の衰えがすすむ・・・。
それでも、記憶がすっぽり抜けるということまではなく、まだ「物忘れが多い」という段階だった。
S病院の物忘れ外来受診には紹介状がいる。MCI(軽度認知症障害)を疑った私は、退院後リハビリに通うT病院に事情を説明しS病院物忘れ外来受診のため紹介状を書いて頂いた。
おだてようが、土下座しようが、
「あんたとは縁を切りたい」
という母。
こたつ台に両腕をのせそこに顔を埋め
「首に縄つけられても行かない」
と頑なに”いやいや”をする母。
呆れて
「まるで幼稚園児。親子逆転だな。」
と声をかける。
「ぷっ」
と母が吹いた。
そんな母に検診なら誰でもすることでしょう?、もう受診予約も取ってあるからキャンセルはできないと追い打ちをかけ、なんとか初回の問診・受診まではこぎ着けることができた。
では、MRIとCT検査日の予約を取ってその日にまた検査をして下さいね
と指示され、次回の検査予約まではとった。
ところが、その日が来る直前に、私は行きませんから、どこも悪くありませんから、と自らS病院に電話した母。
「ご本人様からの電話だけではキャンセルは受けられませんので」
というS病院からの連絡でそれを知った私。
私はあきらめた。急遽S病院まで出向き、これまでのこと、母の所行について詫び、以後の受診をあきらめること申し出た。勿論母には知らせずに。実家も近かったが、そこへ寄ることもなく私は折り返し往路を戻った。
いや、たとえ検査をして何かが分かって、何かをしたからといって、今のような事態(認知症発症)を回避できたとは限らない、という指摘はもっともだと思う。
でも、それは私には、何もしない母、何も手を打たない母、と全く同じ類の話だ。
ただ何もしない、のも、何の意味もない”かも”しれないから何もしない、は、同じ事なのだ。行き着くであろうゴールは同じ、としか思わない、なぜなら結局何もしないのだから。
やれることをやり、それがだめなら次を試す、一つ一つ消してゆけばいいのだ。どうせだめだから、何もしない、なんていうのは理解し難い話なのだ。
今の母は、あの時、あの分岐点で、無意識ではあれ、母自らが選択したことの一つの結果だ。
それを母一人に擦り付けるつもりはない。
今の母は、あの時、あの分岐点で、私が結局母を説得しきれなかったという事実の結果でもあるのだから。