「お世継ぎ問題」のところで、「おまえは母を好きか嫌いか?」と自問自答を試みるとき、それが二択なら、"嫌い"となる、と書きました。
一方、あたりまえに、親(=両親)に感謝していることもあります。
育ててくれた、生んでくれた、では、水戸黄門の印籠のごとく、そこで完結/終了してしまい、漠然に過ぎる。
さらなる自問自答を試み、真っ先に浮かぶ"事柄"をあげてみると:
- 親は教育熱心だったが、小学校低学年時より、週刊のマンガ雑誌を複数冊欠かさず定期購読させてくれた
- 文学全集、百科事典を買い揃えてくれた
- 興味のあった英会話教室(受験用ではなく、集い的色彩の強い教室)に通わせてくれた
- 学研発行の教育雑誌を定期購読させてくれた(付録が好きだった)
- 親の薦めで受験し入学した中学で色々な経験ができた
今の私の礎はそういう環境だったからこそできたものと自ら思っている。ただ、表裏一体、そうは言っても、(表現に迷うが)気難しい/面倒(時として無感情)な性格も同時に形成されたということもあったのかもしれない。
今でも実家に帰ると、もう母が上ることのない急な階段を上った向こうにある二階の部屋、その鴨居に掛けられた額に納められている色あせた賞状、そこにあるのはヘッセの著書名と私の名前。
それは小学生の時だったか、読書感想文で自治体から表彰されたときのもの。
確かに当時、与えられた環境もあり私は読書が好きだったと記憶している。ただ、全集にあるような内外の作品以外で、以後自ら買い求め読んでいたのはヘッセに始まり、カフカ、カミュだった。
それがどれほどの影響を私に与えることになったのか真剣に考えたこともないが、いまでも実家に掲げてあるその色あせた過ぎ去りし日の記録を見るたび思い浮かぶ、あんな本、こんな本を読んだな、と。
意識の及ばぬ奥深いところに断片的ではあれ今も残っていて、それを見上げる度にその何かが陽炎の如くゆらゆらと微かに私の周りをしばしの間よどみ漂うのだ。
私は、母を好いてはいない、いや、いなかった。物心着いてからずっと。それでも、母は母だ。馬が合わずとも、そこには母、という存在が歴然としてあるのだ、いや、あったのだ・・・?
今、母の記憶からいくつかのことが消えつつある。もし、認知症に関するあらゆる(と言っても、現時点で私が読んでいる範囲に限ってではある)本が伝えているごとく、その症状が進行し、あれもこれも母の記憶から消えたとき、そこに存在するのは果たして母なのだろうか?
どんなに記憶障害が進行しても、認知症患者が何もわからないわけではない、というのもよく伝えられている話だが、果たしてそこに存在するのは、母なのだろうか、それとも、あらたに形成された「別の母」なのだろうか。
不謹慎なことを書いているのかもしれないが、以前見たNHKのクローズアップ現代「息子介護」の一場面で、時にいらっときたり、大きな声を上げてしまいがちな日々の介護の中、むしろ母を母として接するのでなく、友達のように接することで緊迫した場面にはまらないようにしている、といった体験者の声があった。
つまり、母であって母ではない、友達として、というのは、(例え人海戦術であれ、少なくともその時)それは母なのだろうか。
その尺度、目盛りのふりかたは、もしかすると、その母を見守る者、つまり私ということになる、が母を本当のところどう想っているか、心の寄せ度合いに左右される、ということなのか。
だとしたら、真坂家の場合は、ちょっと問題ですよ、と言わざるを得ないのかな、目盛をふる者が私というのは果たして如何なものか、などと取り留めもない事を考えてしまう。
まもなく秋の彼岸。台風でも来ない限り、私は帰省する。
母の上ることのなくなった二階へと続くあの急な階段。
それを上がった先の部屋にあるあの色あせたものを見上げたとき、その時の私は何を思うのだろう。