母が別のトイレに入りドアを閉めたタイミングで、先程の「開かずのトイレ」のドアが開いた。
出てきたのはあのお隣の男性だった。
こんにちは、またお会いしましたね。
あっ、どうも・・・
最近は私の顔を見て、「知り合い」だと認識してくれるようになったお隣さん。
つぶやくように訴えはじめた。
う〜ん、どうしたのかな。こんなことは今までなかったのに・・・
どうしたのですか?
今日に限ってうまくできなかったんだよ。
おかしいな・・・
どうやら排泄がうまくいかなかった、ということらしい。
排泄、といってもお隣さんの場合は事情が少々異なる。
多分、尿路ストーマを使っているらしきこと、外見から察しがつく。
腰に巻いたバンドに下げられた布袋の中に採尿バッグがあるのだろう。
そのバッグの中身をトイレで処理するのがいつも通りに行かなかった、ということなのだろう。
そんな日もありますよ、気にしない方がいいですよ。
そうかね。こんなことは今までなかったのに。
母が戻ってきた。
どう?
う〜ん、変わらないねぇ。こうやって座っていてもヒリヒリするんだよ。
ここじゃあ、好きな時に風呂に入るわけにいかないからねぇ。
(変な方向に話が行きそうだ・・・)
どこにいても 24時間ずっと風呂に入るわけにもいかないでしょう?
まずはその原因を治すようにしないと。
それはそうだねぇ。
拭きすぎ、ということはないのかな?
便秘とか、お腹を壊しているとか、そういうことはないの?
いや、便秘じゃないし、お腹も壊していないよ。
ここのトイレにはウォシュレットがついてるけど使ってる?
・・・えっ、ちょっとわからないねぇ?
おや、気づいてなかった?・・・ちょっと見てみようか。
母の部屋に近い方のトイレに母を連れて行く。
ほら、横にあるこれがスイッチだよ。
これを押せば温水が出る、これを押すと止まる。そして、これで水流の強さが変わる。
そうなんだ、知らなかった。
今度から、ウォシュレットを使ったようがいいよ。
その方が清潔だし、肌も荒れないと思う。
そうだね、これは便利だ。
(覚えてられるかな・・・)
トイレを出て母をソファーに誘導する。
ほら、こっちに座った方がいいよ、柔らかいからこちらの方がふかふかしてお尻には優しいかもね。
そうだねぇ。
ちょっといいですか。
例によって、お隣さんがゆらっと入ってきた。
どうぞどうぞ、こちらのソファーに座ってください。
いいのかね?
私はずっと列車で座ってきましたから、立っている方が実は楽なんですよ。
そうかね、それじゃぁ・・・
《母の方を向き》どうかしたのかね?
変な話だけど、お尻が痛いんだよ。
拭きすぎなんじゃないの?
そんなことないよ。今日に限って痛いんだよ。
いや、こっちもそうなんだよ。
ずっとうまくいってたのに、今日初めてトイレがうまくいかなかったんだよ。
おかしいんだよ。
今朝あたり急に冷え込んだのが原因かもしれません。
気のつかないところで体に影響が、ということもあると思います。
そうかもしれないね。
なるほど、そんなことがあるかね?
あると思いますよ。人の体はロボットじゃないから、毎日同じ状態でいられるわけがない。
それはそうだ。
なるほどね。
《母の方を向き》息子さんいいこと言うね。
いつのまにか大人になって。色々知ってるんだねぇ。
(成人してからもう幾歳月・・・)
こういう気候になるとかなり乾燥しているから、お肌、皮膚の状況もいつもと違って当たり前じゃないかな。
そうだねぇ。
今までこんなことなかったのに。今日初めてなんだよ・・・
しかし、お二人揃って「しも」の話とは・・・結構な「おしり」合いで・・・
おしりあい、かぁ・・・上手いこと言うねぇ。
なるほどね。
でも、今までうまくいってたのに・・・
気にかけすぎない方がいいですよ。
明日はうまくいくんじゃないですか?
そうかね!
うっすらと安心したような表情を浮かべたお隣さんだが・・・
ソファーに腰を埋めたまま、だんだんと目頭が重たくなっていくのが見える。
多分いつものように、はっと目を開け、それじゃぁ、と部屋に戻るのだろう。
「いつものこと」に気をかけることなく、私は母と会話を続ける、
痛みが続くようだったら、介護士さんに言ったほうがいいよ。
何かお薬を塗ってくれるかもしれない。
そうだね。
それに、ウォシュレットをなるべく使ったほうがいい。
拭きすぎると余計痛くなるかもしれない。
肌が荒れているのかもしれないし。
わかった、そうするよ。
隣に座った「お隣さん」の目が開く。
それじゃぁ、ちょっと。
と立ち上がり、ゆらゆらとした足取りでお隣さんが部屋に向かう。
と・・・自室でなく、隣の母の部屋に入っていく・・・
母の部屋の中で周りを見回しているお隣さんが見える。
あれれぇ・・・?
あれっ、どうしたのかねぇ、やだねぇ・・・
ソファのある場所から丸見えのお隣さんの行状を眺め母がつぶやく
介護士さんがすっと走っていく。
xxさん!ここは違うでしょう?
お部屋は、と な り ですよ。
いや、わかっている、といったそぶりで母の部屋から出てきたお隣さん。
自室には戻らずそのままゆらゆらとソファのほうに戻ってくる。
どうしたの?何か話したいことあるのかい?
えっ?う〜ん・・・
いや、今まではうまくいってたんだ、今日に限って・・・。
多分、急に冷え込んだり、乾燥したり、それで体調が変化したんだと思いますよ。うちの母も今日に限ってお尻が痛いと言ってるし・・・。
そう、こんなことは今までなかった。
そうかね!
そうですよぉ。心配しすぎない方がいいですよ。
じゃあ、母さん、1時間に1本のバスがそろそろ出るのでそろそろ帰るよ。
またすぐ来るから、その時は歯磨き粉を持参する。
ウォシュレット試してみてね。
わかったよ、今日は悪かったね。
それじゃぁ、xxさん 今日はこれで失礼します。
帰るのかね。
と、おもむろにお隣さんが右手を差し出す。
「これはこれは」と私もその手を握り握手をする。
と、私の右手を包み込むようにお隣さんが左手を添える。握力はほとんど感じない。
私を「知り合い」と認めた証なのか、ひとつの「感謝」の印なのか、それは誰にも分からない。
帰宅後、施設長宛にフォロー依頼のメールを送信した。
1)母の部屋替えにつきましては、視空間認知力に衰えがありますので、慣れるまで時間がかかるかもしれませんが、よろしくお願いします。
2)鎮痛剤が効いたのか、太もも裏の痛みについて肯定こそしましたが痛みの訴えはありませんでした。
当人は今回初めてそこが痛くなったかのように認識しているようで、「これまでもそこが痛いと何度か訴えたことはある」と伝えても、「そうだった?」と記憶には残っていないようでした。
再度「膝関節周りの拘縮によるもので、マッサージをしたり、痛くないときに足を動かして機能維持に努める必要がある、と療法士さんが言ってたよ」と伝えておきました。その場では納得していましたが、記憶に留めてくれるかはわかりません。
3)お尻が(肛門周りが)痛い、ソファーに座っていても痛い、としきりに繰り返していました。便秘ではない、お腹も壊してないとの事で、”何度も拭きすぎて”すれて痛いわけではないのかもしれません。
おしめをしているので、かぶれたための痛みという可能性もあるのでしょうか。
「ここでは勝手にお風呂に入ることができないから・・・」と思わぬ方向に話がそれそうになり、「どこにいようが一日中風呂に入り続けるわけにはいかないので、同じ事」と伝えておきました。
トイレでウォシュレットは使っているかと尋ねると、きょとんとしていたので、二人でトイレに行き、
・洗浄開始(ON)
・洗浄終了(OFF)
・強弱
の操作法を伝え、その場では理解していました。自宅で独り住まいの時もウオシュレットを使っていましたが、施設のトイレにその機能があること自体知らなかったような顔つきでした。
何らかの理由で患部がかぶれているのなら、ウオシュレットで洗浄した方が・・・と思いますが、果たして今日のことを記憶に留めていられるのかはわかりません。
4)「私が置き忘れたのかもしれないけど、誰かに歯磨き粉を持っていかれたので困っている」と訴えたので、「安いものだから気をもむだけ健康によくない。何本でも用意するから安心するように」と伝え、次回訪問時に新しい歯磨き粉を持参すると約束。意外と引き出しの奥などに放置されている可能性もありますが、次回持参するつもりです。