それ 認知症かも

認知力の衰えを頑なに否定する年老いた母。それを反面教師に自らのこれからを考える息子。

運命(さだめ)

私は楽天的だ、そう思っている。

 

何かうまくいかぬこと、どうしようもない(ように見える)ことに相対したとき、これも運命かな、と思うことで自らのストレスを逃す、そうすることでここまでやってきた。

 

そして、一方でそれは、逃す=逃げる=目を背ける ことでもあるのではないか、と自認している。それでも、それが別の新たなストレスになるようなことは殆どの場合、無い。そのことが、自らを「楽天的」と思う理由でもある。

 

なぜか、忘れることなく今も心にとどめていること(体験)が二つある。ともにだいぶ前のことになるけれど。

 

それは香港の町、郊外でなくビジネス街だったと思う。当時は出張に次ぐ出張で、いったい私の住まいはどこかしらといった生活、香港他アジアの国ならちょっとそこまで、サンダルばきでもいいかな、といった感覚で動いていた頃。
高層ビルからビルへ渡るアスファルト上の広場を横切っているとき、すれ違いざまに呼び止められた、


「あなた、誰かに裏切られる日が来る、気をつけた方がいい」
彼はそう言った。

 

そもそも、占いのたぐいは全く信じないし、それに耳を傾ける気にもならない性格。今でも朝方TVなどみていると、今日の運勢はこれこれと放送中時間を割いている番組があるが、即チャンネルを変える。


だから、
「ああそうなの、では気をつけます。どうもありがとう。では、急ぐので。」
とその場を後にした。

それでも内心、
「これはおもしろい。そういう日が来るなら、その誰か、とはいったい誰なのか、見とどけよう。」
と、心に留め置いた。

 

結局、それらしき”誰か”に出会うことはなかった。そして時としてこう思うときがある。


もしかすると、私が気づいていないだけかも、と。

 

もう一つ、どちらが先で後だったかは思い出せないが、翌日休日となれば、翌朝まで夜通し飲み明かしていた頃。

 

いつもカウンターだけのこじんまりした店で誰と話するともなく夜明けまで飲んでいた。


周りは歓楽街、時間により周りに座る人も変わる。学生、サラリーマン、ホステス、ホスト、男も女も、今言うところのLGBTも、あらゆる性別、様々な職種、の人達が入れ替わり立ち替わりカウンターに座る。

当たり前だが、性別とか、職種とか、そんなものはカウンターに座ってしまえば何の意味もない。違うのは人それぞれの思い、だけだ。

 

その日、いやその夜、かなり早めに店を後にした。細かくはおぼえていない。ちょっと歩いた先にある店でシャンソンを聴いてみたいと思った、多分そんな何気ない動機だったかとおぼろげながら思う。

 

深夜にはほど遠く、そこには先客もおらずがらんとしていた。席に案内され、もうすぐ来るという店の主人が到着するまで、従業員が話相手をしてくれた。その方の顔も今となっては全く覚えていない。

気になるのか、それとも癖なのか、中指と人差し指の間にネクタイを挟みスッと中程から下になで下ろす、それを彼が繰り返していたことだけ記憶にある。

ほどなく店の主人が到着した。いまでこそふわっとした金髪が印象的だが、果たしてその時どのような風だったか、ましてそれが今のようだったかさえも記憶にはない。空いていたせいもあったのか、その方としばらくの間言葉を交わした、そしておもむろに尋ねられた。それを今でもはっきりと覚えている。


「あなた、人に裏切られたことは?」


私は応えた
「ないと思います。それが本当に無かったのか、それとも私が裏切りと認識していないだけなのか、それはわかりません。」と。


その主人はこう返した。
「幸せな人ね」

 

そう、私は幸せな人なのかもしれない。それが、私の言うところの楽天的、そう思う理由、なのかもしれない。

 

今日に至るまで、裏切られた、と思うことなく生きてきた。


今このBLOGを書きながら思う、

裏切られる、と思うに至るには、信じていた、ことが前提となるならば、もしかして私はこれまで誰も信じてこなかったのかもしれない。

 

確信はない。

 

あなたには女心がわからない、といったたぐいのことをドラマなどでよく聞く。いやいや、私には女心はおろか、人の心も、そして時に、自らの心もわからないことがある。自らが何を信じたのか、信じていなかったのか、私にはわからない。

 

新たな年が明け、このBLOG「それ認知症かも」を前にして思いを巡らせるとき、

私を裏切ることになるのは、母となってしまうのかな、という気持ちにとらわれる。

 

f:id:masakahontoni:20190107181406j:plain単に一つの可能性にすぎない。

 

そして、それが仮に現実となるようなことがあっても、私は思うのだろう

 

これも運命かな、と。