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サービス担当者会議を終えた足で病室に向かい退院準備。救急搬送されたS病院の時と比べれば、行う手続きはないに等しい。
行き先は目と鼻の先の併設施設、という恩恵か。
母には、S病院救急病床→K病院リハビリ病床→K病院療養施設という説明を繰り返してきたが、いまひとつ理解ができていないようだ。認知症を発症しているから、ということではなく、以前からその手の話題には全く興味がなかったので、という部分が大きい。
高齢者取り巻く世の状況がどうなのか、について当事者の高齢者自身が疎い、いや、興味がない、というのはいかがなものか・・・というよりは、「その時になればなんとかなる」という意識なのか・・・私にそれを推し量ることはできない。
それにしても、S病院からK病院へどのようにして転院してきたかの記憶も今はないことを考えれば、今日という日も記憶されることなく母の脳裏から消えていくのだろうか。
それでも一つ大きく違うことがある。(この違いこそが危惧される部分であるが)S→Kの時は、骨折の治療中という確かな認識・自覚が本人にあった。
しかし、今の母の脳裏にあるものは、そしてそれは徐々に大きくなりつつあるのだろうが、骨折はほとんど治癒し治療も間も無く終わる、という意識だ。
私のそういう不安が、今”危うい”橋を渡りはじめている、という意識をを否応なく増幅させる。そんな不安を奥にしまい込み、粛々と、あの時の転院作業と同じく、唯々母の荷物をそそくさとまとめた。
施設長が部屋まで迎えに来られた。
私、相談員、ケアマネ、共々 母と玄関に進む。
施設長の車に荷物を押し込み、母が乗ったのを確かめ、私はA施設まで歩くことにした。
歩いたところでものの数分の距離だが、母を乗せた車は数十秒で到着。母が玄関から部屋に通じる廊下を歩き始めた頃、私がようやく施設到着。
施設長が母を部屋に案内。
身の回り品は前日それぞれの引き出しに収納済み。
私は持ち込んだ荷物を片付けながら母の様子を注意深く見守る。母はよく理解できていないように見えた。
なにせここでは皆個室。
病院を思わせるところなど微塵もない。
私にはそれがより良い環境に見えるし、そう受け取れもするのだが、母にはそのことが新たな?マークとして頭の中に灯ってしまうのかもしれない・・・今思い返してみれば、になるが。
S病院救急病床→K病院リハビリ病床→K病院併設施設の話を繰り返しながら
新たに母のベッドの横になった人が、夜通し激しい咳をしていたと先程K病院で言っていたでしょう?
そうなんだよ。あれは何か病気だね。ずっと咳をしているんだよ。
病院もそれなりの処置はしているはずだから、感染するような病気ではないと思うけどね。でも夜通しの咳き込みだとぐっすり寝られないでしょう?ここなら個室だから隣を気にしなくて済むよ。
それはそうだね。
後10日もしないうちに、となりにTさんという人が来るらしいよ。
これまで隣の老健に入院されていた方で車椅子だけど明るく話し好きな方らしい。気があうんじゃないかな。
そうなの。
でも私としては、あれさ。 もうそろそろ家に帰って、と思うんだよ。
まだ、2足歩行のリハビリが始まったばかりでしょう?先を急いで結果として転倒・骨折となったら大変なことになるよ。この写真を思い出してよ。
と例のレントゲン写真を見せ、
これまでと違い、今は骨の髄に金属が入ってる。転倒してこの金属が曲がってしまったら、周りの骨を砕かないと金属を取り出せない・・・。
ああ、そうだった・・・
そのためには、じっくり筋力の回復に努めていかないとね・・・
・・・
時として母の部屋で荷物を整理しながら、時として部屋出てすぐの食堂のテーブルに席を移し昼食をとりながら、似たような会話が4度、5度と繰り返される・・・。
早速、施設での昼食を母が試すことになったが。赤飯をお粥状にやわらくしたもの、一口状に切り分けた(多分)鯛の煮付け、野菜の煮付け、プリン状のデザート、を母は残らずたいらげた。
食事はどう?柔らかさは大丈夫かな?
おいしいね。
K病院の栄養士さんが管理しているから、これからもバランスのとれた食事が出てくると思うよ。
そう、この日は令和元年、記念すべきその初日。
昼食のお膳を乗せたトレイには形ばかりとはいえ、令和と書かれた横に国旗が描かれた紙片が添えられていた。こういうのがあると、話の種になる。
とはいえ、食堂はがらんとしてほぼ無人、介護士さんの姿の方が目立つ状態。
この時間他の入居者はデイサービスに行き留守なのだ。
(困るな・・・この状況は。益々一人考え込むようなことになってしまう・・・。)
- ホップ・・・ステップ・・・そして (入所当日)②へつづく -