それは週末、日暮れ前、とはいえ未だ明るいそんな時のこと。
「もしもし・・・もしかして風邪でも引いたかな、と思って・・・。心配しています・・・。何でもなかったらいいのですけれど・・・。何かあれば看病しないといけませんので、心配です・・・。」
正月早々、こんな文言が留守番電話に入った。2時間と経たぬうちに2回も。
私はそれにいらつき、怒りにもにた高まりを抑えることができず、一昼夜もがいた。
夜な夜なかかるこの手の電話に閉口し、母からの電話を全て着信拒否としてから、忘れかけていたはずのあの感覚、それが再び蘇り、私の頭を押さえつける。まるで、そのまま見知らぬ沼地の底深くに押し込もうとするかのように。
その”押さえつけるもの”を振りほどこうと もがけばもがく程、それは剥がれるどころか更に私を包み込もうと食指を動かす。叫べば剥がれるのかと、シュミレーションを試みるが、繰り返せば繰り返す程に、蓄積してゆく負のエネルギーに心がしびれ悲鳴を上げる。
-どうなってるんだよ
-いいかげんにしてよ
-何百キロも離れたところからなにを看病するんだよ
-おかしいよ
-電話やめてくれないかな
-俺を狂わせたいのか
-やってることがストーカーだよ
なにをどうバーチャルに叫ぼうが、こう言えばああ言えばとシュミレートしたところで、なんの結果ももたらしはしない。ただただ心がしびれてゆく。
それにしても驚いた。
母の”夕暮れ症候群”はこれまできまって日が暮れてから、それも夕暮れなどではなく、夕刻に起こるのが常だったからだ。それが未だ日も暮れない時間にかかってきたからだ。それは母の症状が進行した可能性を、私に連想させる出来事だ。
今ひとつは、着信番号拒否していたはずの母からの電話が、留守電番号に転送されてきたからだ。
携帯から別番号へ転送の上、留守録につなげているが、『メッセージをお預かりしています』という転送先からの自動メッセージを受け、私は凍り付いた。あの夜な夜なの電話に閉口していたあの時が、その瞬間そこで蘇ったのだ。
これをトラウマと言わずしてなんと言うのが適当か、心臓の高鳴りを抑えきれぬままなんとか冷静になろうと、なぜ転送される”羽目”になってしまったのか思いを巡らせ、もしや母が”非通知”で電話をかけてきたのではと -信じがたいことだが- 思いついた。今の母に184番をつけてダイヤル発信することなど思いつくのだろうか?
それでも動転気味の私は深く考えることもなく、対処法をググった上、「番号通知お願いサービス」を有効にした。
日曜日が明けても私はもがいていた。蓄積された負のエネルギーは抜けることなくたまったままだ。このまま母にご機嫌伺いの電話でもかけようものなら、思いの丈を叫んでしまうかもしれない。本棚にある積ん読本を一冊手に取り、スタバに行った。
結果を言えば、その本を読むことで、なんとか心の整理をつけた。(その本についてはまた別の機会に・・・)
家に戻り、今度は4キロ程ウォーキング。自分では落ち着けたつもりだが、ご機嫌伺いの会話の行き場によってはどうなるかは自信がない。
もしもし・・・何か面白いことはあった?部分入れ歯はどうなの?
特に面白いことはないねぇ。入れ歯はできあがったけど、どうも居心地がよくなくて・・・まぁなくても食べるのには困らないしね。
(あれれれ・・・どうやらあの留守電に入れたことはもう忘れているようだ)
部分入れ歯をつけない生活に慣れてしまったからだよ。最初は誰でも違和感があって外しがちなんだよ。でも我慢してつけるようにしないといつまで経っても慣れることができないよ。
でも歯の噛み合わせはとても大切だよ。奥歯の噛み合わせで、血流が脳へより多く行く、というのは昔から言われていることだよ。それに、部分入れ歯をつけないと結局歯肉に相対する奥歯があたって痛い・・・
そう、そうなんだよ。
それに、更に悪いことに、柔らかいものしか食べられない。バランスよく栄養をとることもおぼつかない・・・やわらか弁当は食べたのかな。A子が冷蔵室に移したのと、冷凍室に在庫になっているやつ。
冷蔵室のは食べたよ。冷凍室のは・・・奥の方に入ったままかな。
だめだよ、ご飯とコロッケばかり食べてちゃ。それにもう冷凍室はいっぱいだからね、もうしばらくは冷凍物を生協に注文してはだめだよ。やわらか弁当も食べてくれないと困るね。いくら頑張っても身体に栄養が行かないと、筋肉も、脳みそも動かないよ。デイサービスのお試しはどうなったの?
ああ、B通りのデイサービスね。でも、ご近所のNさんも、Sさんも似たような歳だけど行ってないし。最近は、外に出ても誰も歩いてなくて、みんな家にいるのかな・・・。私も歳の割に元気だし、健康なんだからデイサービスに行くのはどうかなぁ。
だめだよ、隣近所を見て自分の未来を決めては。人それぞれ、生活も、遺伝子も違うんだよ。お隣がああだから私もそうに違いない、なんてことはないんだよ。それに母さんの住んでるXX町Y丁目やZ丁目界隈のお年寄りは引きこもりの人が多いでしょ。そんなのを参考にしたら、母さんも引きこもりになるぞ。
何度も言うけど、こちらの集合住宅界隈にも母さんと似たような年齢のお年寄りが沢山住んでるけど、今日も朝8時頃にはデイサービスの送迎車に乗って皆さん出かけてるよ。
母さんのいるXX町は、これからは「ひきこもりY丁目、ひきこもりZ丁目」と呼んだ方がいいね。引きこもっていたら、身体も衰えるし、頭も使わない。それは年齢に関係ないよ。
そんなお年寄りが多いと、結局病気がちになって、医療費がかかる。でも、納税者減りゆく日本にはもうこれ以上医療費負担する余裕がない。じゃあ、お年寄りにもっと元気になってもらって、医療費の増加をできるだけ減らそう、それにはお年寄りにもっと外に出てもらおう。それがデイサービスだよ。
デイサービスは病院じゃないよ。健康だから行くんだよ。健康を維持するために行くんだよ。恥ずかしいなら、一緒に行くと言ってるけど、どうなの?
大丈夫だよ。行くとなれば、私から包括さんに電話して行けるよ。まぁ、今は寒いからね。
だめだよ、母さんの、寒いからね、は。信用ならないね。冬になれば、寒いからね、と言い、夏になれば、暑いからね、と言い、季節は巡り年が明け、1年経っても2年経っても何もしない・・・。
そんなことないよ。それに脳活の集いにはちゃんと行ってるよ。
いやいや、脳活の集いにも興味が薄れてきたんでしょ? この前、いつ行ってもたいした話をするでもなく面白くない、って言ってたじゃないか。それは、結局、何ヶ月か脳活の集いに通って、内容に慣れてしまった、ということだよ。慣れたところへ通ったところで刺激は受けないよ、本当の脳活にはなってないよ。しかも、脳活の集いは週一回、後の六日間は引き籠もりだよ。
もっと新鮮で、頭を使わざるを得ないようなところへ行かなきゃ。どこでもいいけど、そこで話が出てるのが、B通りのデイサービスでしょう?今年は包括さんに会った?
そうだねぇ・・・あの脳活の集いは面白くないんだよねぇ、似たような話ばかりで。
包括さん?いや、今年はまだだよ。あの人も、来ても大して話することなく帰っちゃうんだよ。
俺みたいに、ああだこうだ、言って嫌われたら困るからでしょ。今度会ったら、母さんの方から、デイサービスのお試ししようかな、と話しかけたらいい。すぐに計画してくれると思うよ。恥ずかしくて切り出せないのなら、俺から包括さんに電話しておこうか?
いや、大丈夫だよ。
本当かな・・・。栄養ジュースは未だ残ってるのかな?やわらか弁当の在庫と併せて、ちょっと今見てきてよ。
・・・・・やわらか弁当は下の方に未だあるね。栄養ジュースはもうないみたい。あれはおいしいから楽しみにしてるんだよ。
まぁ、冷凍庫があの状態のうちは、送りたくてもやわらか弁当は送れないね・・・ちゃんと食べてよ。栄養ジュースはまた送っておくからね。
何も変わらない・・・。