この日も、実家に寄り所用を済ませ、施設に母を見舞った。
玄関を通り抜け、母の部屋があるユニットに入るには職員の権限で開閉される仕切りドアを通り抜ける必要がある。
知らぬ間に入所者が外に出てしまうのを防ぐ、あるいは 職員の目の届かぬところで入所者が事故(転倒骨折等)にあう可能性を減らす為でもあるのだろう。
そのドア横にある「ピンポン」を鳴らすとドアの向こうから「はぁい」と介護士さんの声が聞こえドアが開いた。
お世話になります、真坂です。
こんにちは。
どうですか?母の様子は?
今日は、お部屋で 隣の男性とお話しされています・・・
そうですか、と母の部屋前まで行き、ドアにある20cm四方ほどの覗き窓から中を伺うと ベッドの縁に座り談笑する母の姿が見えた。相対する位置にある椅子に隣の男性が座っている。
コンコン
とノックする
母がこちらのドアの方を見る
ドアを開けて何気に声をかける
やぁ、お話中のところすみません・・・
あら、来たのぉ・・・
ちょうど今ねぇ、帰ろうかと思って荷物をまとめたところ
ベッド脇にまるで夜逃げでもするのかといった大きさに包まれた風呂敷包みが見える。
おやまぁ・・・これはすごい荷物だねぇ、抱えただけで骨折するんじゃないか?
大丈夫だよ、これに載せて行くから
とレンタル中の歩行補助器を指差す母。
母の中ではすっかりそれが所有物という認識なのだろう。
いやいや、これは都合がいい、とクリーニング屋さんに全部持ってかれてしまうかもね。
真坂さんっていつも親切だなぁ、クリーニングに出す服を風呂敷にまとめてくれて、と。
そうかね?
いや、この人も今日帰るっていうから、それじゃぁ、私もそろそろと思ってね
腕を後ろについて体を支え足を組みベッドの端に座り込む様は、どう見てもふんぞりかえっているようにさえ見える
(こりゃだめだ・・・)
と思った
気が大きくなっている時の母だ
人前で、この場合、相対して座っているお隣さんの前で「ええ格好」を演ずる「ええかっこしい」の母である。
こんな時の母が最も重きをおくのは「いかに自分がええ格好に見られるか」であり、その絶対的基準に沿わないいかなる事実も、少なくとも人前では認めようとも、理解しようともしない。それが母である。
(こりゃだめだ・・・)
またそう思った。
そんな間も、それならこれを持って行きなよ、とベッド脇の引き出しからボールペンを取り出し(それが餞別代わりとでもいうことなのか)男性に手渡しながら、
なんか気の利いたものを、と思うんだけど、他に何もないんだよ、ここにはね。
と呟く母。
そう、物を授ける側、そういう立場こそが母にとっては最も精神的な落ち着き処なのかもしれない、少なくともその逆よりは遥かに、この場において。
こんな場面では話す内容に制限がかかる。いや、何を話したところで馬耳東風。
当然プライベートな話は母もしたくも聞きたくもないだろうし、そんな話自体この場の「母の絶対的基準」に反する。
私も対母において忍耐という点に全く自信がないので、早々に諦めを決め、
それじゃ、今日はもう帰るよ。お話しを続けてください。
では、母の方をよろしくお願いします。
とその場の男性に声をかけた。
おやまぁ、もう帰るのかい、早いねぇ
もちろんその表情に残念は様子など微塵もうかがえない。たとえ心に寸分の迷いが仮にあったとしても、母に取り最重要課題は人前でどう見られるか、なのだから。
それと、前回約束したヘアクリームの新しいのを用意したから置いておくよ。
おや、そうかい。悪いねぇ。
文字通り、ものの十分も経たないうちに部屋を出、ユニットの食堂兼談話室を通り抜け仕切りドアへ向かう。
介護士さんがえっ、もうっ?という表情で私を迎える
今日は帰ります
随分早いですね
いや、お隣の男性の方と会話が弾んでいる最中のようで・・・
個人的な話をするのも気がひけますので・・・
介護士さんの顔が少々曇る
ちょっとお待ちくださいね。報告してみますので。
と向こうにいる別の介護士さんのところへ。
今度は報告を受けた介護士さんが近づいてきて
すみません。隣の方がすぐ部屋に入り込んでしまうようで・・・
ちょっとお待ち下さい。
スタスタと母の部屋に行きドアを開け何事か話している
と、すぐに部屋からあの男性が出てくる。
真坂さん、どうぞ。せっかくいらしたんですから・・・
と、介護士さんが再び私を部屋に招き入れた。
何をどのように話したのかはわからないが、そこは介護士さん、誰も気分を害することもなく話をしたのだろう。母の表情にそれとうかがわれるようなものは微塵もなかった。
また来たよ。せっかくだからもう少しいましょうか。
いやね、隣のTさんももういないんだよ。部屋の前の名札もなくなったよ。もう家へ帰ったんじゃないかな。
えっ、そうなの? いやぁ、でも母さんより後に来た方だからねぇ、なにか色々理由があると思うよ。
母さんの場合は骨折でこちらに来ているけど、Tさんは元々車椅子の方だし・・・母さんとは違う病気でこちらに来たんだと思うしね。
この前バス停でこちらに居るご主人を見舞いに来たというおばあさんに会ったけど、膀胱癌の治療で、またK病院に戻ることになった、と言っていたよ。
人工透析をするため通っている人もいるし、様々な理由でここにいるからね、いなくなったからといって一概に帰った、とはならないと思うよ。
そうなの・・・なるほどねぇ。
ところで便秘はどう?
あぁ、2〜3日に1度はあるよ。かたいけどね。
それはよかった。定期的にお通じがあるなら大丈夫だよ。ご飯はちゃんと食べているんでしょう?
それは大丈夫だよ。大した量があるわけじゃなし、3度3度しっかり食べているよ。
すごいじゃないか。健康な証拠だね。そもそも昔の人が言っていたことでしょう?腹八分目。お腹いっぱいになる程の量を食べるのは逆に良くないと思うよ。
そこからいつものように、足の骨折、手術、ここに至るまでの経緯、を一つ一つ繰り返し、母のいつもの質問に一つ一つ答えを返し、ひととおりそれを聞く中で、母からは先程の「ふんぞり返る」雰囲気が消え、いつも通りの母に戻ってきたように見える。
母さんに一番大切なことは、もう2度と・・・正確に言えば3度目になるけど、骨折しないことだね。
もう大丈夫だよ。
大丈夫、大丈夫、という人が一番危ないんだよ。あそこが痛いここが痛いという人なら慎重になるが、大丈夫と気が大きくなっている人に まさか という出来事が起きるんだよ。
実際1度目の骨折をして、もう大丈夫、気をつけているから、が口癖だったけど、結局2度目の骨折でしょう?
先ほども歩行補助器を使わず何の気なしに歩き始めていたけど、そういうちょっとした時に、まさかのすってんころりん となるわけだ。
まして、骨粗鬆症。転んだら骨折の可能性は極めて高い。
足の骨の髄には金属が入ってもう骨折できない、背骨は圧迫骨折するほどスカスカ・・・それを考えれば「いつも必ず歩行補助器を使う」のを忘れてはいけないよ。
骨折さえしなければ、まだまだ元気で過ごせるのに、今度骨折したら寝たきりになる可能性だってあることを忘れちゃいけないよ。
そうだね、よくわかったよ。
と、ここで・・・
(母との会話中、部屋のドアを開けたままにしておいたせいかも、と後からそう思ったが・・・)
あの「お隣の男性」が部屋の入り口に顔を出し、
ちょっといいですか?
と部屋の中ににゆらゆらと入ってきた・・・
施設の男女関係って・・・②へつづく