それ 認知症かも

認知力の衰えを頑なに否定する年老いた母。それを反面教師に自らのこれからを考える息子。

心の息吹

今回、実家に滞在中、やはり、というか、当然、母の健康の話題になった。

 

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「母さんは、10年以上前、緑内障で手術したことあるんだよ。」

 

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「いや、そんなことないよ。」

 

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「急に目の前が真っ暗になって、慌てて診てもらったら緑内障、そして手術、これ母さんから当時聞いた話だよ。簡単な手術で、日帰りで済んだと言っていたよ。」

 

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「そんなことないよ。目は丈夫だよ。今でもちゃんと字も読める。」

 

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「過去、緑内障だったかどうかは、重要じゃない。言いたいのは、最近目の検査してないでしょ?ということ。」

 

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「ああ、してないね。目は丈夫だし、向こう10年大丈夫だと言われたよ。」

 

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「向こう10年保証してくれる目医者いたら是非受診したいけど、母さんのように、私は大丈夫だ、という人が一番危ないんだよ。今の時代、早期発見でがんも治るのに、大丈夫大丈夫で、結局発見が遅れるんだよ。」

 

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「これでも、私は元気な方。医者いらずだしね。」

 

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「いや、母さんは医者を遠ざけているだけだと思うよ。」

 

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「何で?そんなことないよ。」

 

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「言いたいのは検査のことだよ。最近なら、救急病院へ搬送されたでしょう? 無理矢理に胃カメラ飲まされて、逆流性食道炎だったでしょう? 1年前から幾度となく先延ばしにしてきた胃カメラ検査を受けておけば、そんな事態にまで至らなかったと思うよ。」

 

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「あれだって、たいしたことなかったんだ。血が出たって言ったって、ちょこっと混じっていただけなのに、勝手に救急車呼ばれて。周りが騒ぎすぎ。大騒ぎされてかえって迷惑だよ。」

 

 

私のどこかで、もう1人の私が背中を押した。私はおもむろに携帯をとりだし、あのとき母が私に電話した時に録音したものを聞かせた。

 

そこには

『気分が悪く、何もする気が起きない。もうだめかもしれないので、色々話したいことがある、一度こちらへ来てほしい。』

という、あのときの母の消え入りそうな、すがるような声が録音されている。

 

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「これわたしかね?」

 

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「あなたですよ。このとき、確かにあなたはたいへんな状況だったのですよ」

 

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「・・・そうだよ」

 

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私は、私の心ができうる限り私の息吹にのるよう、肺からの気に声をのせ母に届けようとした。

そう、気功師がハァッとカツを入れるようにはき出す息に声をのせるように。

 

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「こ ん な 状 況 で 、 あ な た を 取 り 巻 く み ん な が 血 相 を 変 え た の で す」

 

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「あ な た の こ と を 心 配 し て 私 も 駆 け つ け た の で す」

 

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「大きな声を出さなくてもいいよ」

 

<大声を出す為になら、こんな出し方はしない・・・>

 

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「あ な た に は 、 私 の 心 の 声 が 聞 こ え ま す か」

 

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「私 は 涙 を 流 す こ と は あ り ま せ ん 、 け れ ど も こ の 奥 底 か ら 絞 り 出 す 声 が わ か り ま す か」

 

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「あ な た に は 人 の 心 に 心 で 応 え る こ と が で き ま す か」

 

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「もう止めてよ、 隣近所に聞こえるじゃないか」

そして、声が外に漏れるのを気にし、そそくさとガラス戸を閉める母

 

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「あ な た に は 肉 親 の 叫 び よ り 、 近 所 か ら ど う 見 え る か の 方 が 気 に な る の で す か」

 

 

いや、そこは何も変わっていないのだ、

 

備わっていた諸々のものが段々と枝から剥がれおちゆく中、これまで隠れていた向こう側にのぞき見えたものは、古の彼方からその生けるものを形作っていた幹そのもの、それは紛れもなく私が物心ついた頃から早く家を出たいと思うに至った、あの、人目を気にし、人と比べ、人の背を追う、あの母の大元の性根の部分だった。

 

普段 私と相対しているのは母のアンドロイドのようなものなのか、

外見は私の知る母と同じでも、心と心のやりとりが適わない、

うわべだけの言葉しか返ってこない。

あたかも、母を装う、そう、

母とは別の生命体と話をしているような気さえしていた、これまで。

 

時として、どっと疲れが出てくる。つのりかけた思いが疲弊していく、枯れていく。


やはり、母のようであって母ではない、いや、別人でもない、いわば、なんとなく母、みたいな存在なのか、そう思いもした、ぼんやりと。

 

母と私は明らかに違う世界に存在している。

私が嘆き、悲しみ、疲弊していると自ら感じているのは、あくまで私の存在する世界での感情なのだ。

異なる世界に住む"その人"を見、いかなる感情を持ったところで、その感情を異なる世界の人と果たしてそう簡単にすぐ共有できるものだろうか?

 

逆に、いや、同様に、母から見ると私はどう見えているのだろう。

何をこの人は言っているのだろう、

なぜこの人は嘆いているのだろう、

どうして、この人は私の言うことが通じないのだろう、

なぜ、わかってくれないのだろう、

 

もしかすると、いや、あらゆることが、そうなのかもしれない。”向こう側”では、私の想いなど身勝手で独り善がりなもの以外の何物でもないのだろう。

 

母の前で手紙を読み上げたあの日、私は粛々と静かに手紙を読み上げた、寧ろ感情を込めないように。

果たして、数時間も経たぬうちに、あの時、母はそういうことがあったことさえ忘れていた。

 

そして、もう母には何を言っても仕方がないのだと納得したつもりだった。

 

それでも、この日、もう一度だけ、母を試したかった。粛々と淡々と読み聞かせの言葉をならべるのではなく、絞り出した気持ちそのままをのせた一言一言が通じるものか、を。 

 

心のどこかで、少々期待はしていた。

 

けれど、浮き彫りになったのは、存在する世界の違い、大きな隔たりだった。そして、私のいる世界と母のいる世界を、その大きな隔たりの間を、この時僅かにつなぎ止めたのは、はからずも元来母のもっていた性分そのものだった。

 

帰り支度をし、私は予定より早く家を出た。また電話するから頑張れよ、と母には言い置いた。

 

巡り合わせとは不思議なものだ。

それは運命のようでもある、が、この日の私にとってそれは両肩にのしかかるような、課せられた重し、でしかない。

包括支援センターでの面談を控えたこの日、よりによってその日に、そういうことが起き、それが更に私の肩にのしかかるのだ。

 

途中喫茶店に入り、包括支援センターで何をどういう手順で話そうかぼんやりと思いを巡らせること2時間あまり、外へ出ると、ここで降るか、というタイミングで雨が降り始める。

これでは、母の「脳活教室」出席はまたも危ういな、これもまた、巡り合わせなのかな、とふと思う。

 

秋雨らしからぬ激しい雨がビニール傘を打ち、一粒一粒にあわせ表面が僅かに湾曲する、向こうの景色がゆがむ。

めぐりめぐって図らずもこういう日にこういう流れになり、それをもって、まさかの、この真坂にこれからの目盛り合わせの作業に向かわせるというのはどうなのか、それが課せられた運命なら神にお伺いしたいことがある、よろしいのでしょうか、それで、と。

 

いや、それがかなわぬなら、あなたならわかるでしょう? 父さん、もっとも不適格であろう人物が、これから母の目盛り合わせを始めようとしているのですよ。それでいいのですか、とせめて聞いておきたかった。あなたなら、それがどういうことなのか一番よく知っているはずなのだから・・・。

 

でも、この世界でそんな機会が与えられることはない。

 

これもまた一つの巡り合わせ、運命なのかもしれない。