母は妹が昨日帰ってきたと言っていた。でも、まさか、彼女が実家に泊まったなどとは全く思わなかった。当然昨日のうちに帰ったものと。
それが、のれんの隙間からすっと現れたのだ
そら、びっくりします。
「あれっ!どうしたの!久しぶり!」
「いや、昨日来て夕べはここに泊まったの」
「へぇ~、それはそれは・・・」
本当に驚いた。いや、彼女が泊まった、ということに、だ。
数ヶ月前になるが、母の発する文言がおかしいと連絡してきた彼女に、
「思うにこれは間違いなく認知症を発症した、とうとうMCIの状態から次の段階へ進んでしまったに違いない」と伝えた私。
話が介護施設のことに及んだとき、「何か起きてからでは大変なので、首都圏あたりの施設も考えないと」ともらした彼女の(田舎ではなく)”首都圏”という単語に私が反応(目の届く場所に、という気持ちがあるのかと誤解)、「母さんを思いやる気持ちはわかるけど」といった風のメールを返したときだ。
「母を思いやって言ったわけではない。正直、母の面倒を見たくはない。学生の頃からあれやこれやひどい言葉を浴びせられ、トラウマになるほど心を痛めつけられた。育ててもらった、という思いから連絡は取り合って来た。が、家に帰っても泊まろう等と全く思わないし、顔をあわせて相変わらずのあれやこれやを耐え聞く事自体がとてもつらく心が折れそうになる。父さんがもし生きていてそういう状態になったのなら、介護も全くいとわないが、母親についてその気は全くない」
とすぐさま即答が来た。
何にどう傷つけられたのか、これまで私が母から聞き及んできた陰口等思い起こし、さぞかしつらい思いでここまできたのだな、と想像含め推察し、「あなたが母親の介護について現在はおろか将来にわたって私から”か”の字も聞くことはないから大丈夫」と返事をした。
そう、その「実家に泊まることはない」と言っていた彼女が泊まっていた、そのことにとても驚いたのだ。
居間に戻り部屋を見回せば、これは暖かいヒートテックの下着、これは(私にはよくわからぬが)簡単にすませられる?ファンデーション、これは大きな文字で見やすいカレンダー、これは・・・、これは・・・、とそれぞれビニールパックに仕訳されメモ書きが貼ってある。そして、真っ赤なハードカバーの薄目のスケジュール帳。
「何度言っても同じ件で電話をかけてくるので、メモ書きしてもらおうと思って。この間も、もう、あれほど、ずいぶん昔に旦那とは結婚し籍をいれたと報告にも来たのに、いい加減娘と結婚してくれと電話よこすし。兄の嫁問題がどうこうを何で私の方に相変わらず電話するのかな、というのもあるし。なにを互いに話したか備忘録にしてほいの。」
(メモ書きか・・・書かないんだよね。あの時の私と同じ気持ちなのだろう。)
「いいねぇ、いたれりつくせりじゃないか、母さん。まぁ、メモ書きといえば、忘れもしない1年前、結構立派な日記帳を送ったけど、後で見たら1月1日しか書き込まれていなかった。三日坊主とはよく聞くが、母さんは一日坊主だからねぇ。今回は頑張ってほしいねぇ。」
母との話でのどが痛いという妹、しばらく休むと二階へ上がる。わかるよ、それ・・・。なぜ喉が痛くなったのか、想像するまでもない。この家に居れば居るほど喉が痛くなるのだ。母とのエンドレストークが原因だ。
そして、成り代わり私と母とのエンドレストークが始まる。
- 歯医者どうなった
- デイサービスお試しどうする
- 引き籠もりよくない
- 脳活の集いどうだ
- このままでは身体も頭もなまる
- 冷凍庫またいっぱい
- コロッケ3パック
- やわらか弁当食べてよ
- 栄養剤飲んでないね
私の尋ねることも、母の応えも、毎週の週”慣”お伺いでのものと何もかわらない。
いや、相対しているだけによけい始末が悪い。私が平静装うことが難しくなるからだ。
受け応える母の表情を目にしながらの会話からくるストレスは想像以上に大きい、その眼球の絶え間ない動きからいかに母がその会話に集中していないか、が見て取れる。
そして聞いている風に見えるが実のところ右から左へ筒抜け状態だったかのような顛末に終始する。よく言えば通り一遍、焦点がかみ合わず そこに”ちぐはぐさ”を感じてしまう。そしておもむろに、突拍子もなく話を変える(話の矛先を変えようとしている、のならしたたかなる技だが・・・)。
むなしさが積み重なっていく。
まるで、あまりにも稚拙で、あまりにも見え透いたその場限りの返し言葉のように”聞こえてしまう”、話しても話しても母が直接心から応える(応えたように聞こえる)ことはない。
投げかけても投げかけても母からそのボールが投げ返されることはない。母はただただボールをよけているだけなのだ。いや、実のところは、認知症発症した母にいくらボールを投げても、母には”キャッチボール”という概念自体がないのかもしれない。更に始末の悪いことに、私がそういう”悟りの境地”に至るのが誠に遅ればせながらこのように後々ブログに記す段階になってからなのだ。そしてようやくその時になって私は自らを責めるのだ。私のボールの投げ方に問題があるのかもしれないと。
これが電話なら、顔が見えないだけに、親子漫才と決め込んで、十に一つ伝われば、と最低限の希望だけに限定することで平静を保つことができる。それが、相手の顔、目の動きを目の当たりにすると・・・未熟な私には感情の高まりを押さえることが難しくなる。
やはりこの人とは距離を置かぬ限り、言葉の掛け合い自体がもう成立しないのだと今更ながら認識させられる。あらためて、また何回目かの再認識をさせられる、それ以外、収穫は何もないのだ。残るのは積み重なったむなしさだけだ。
遅まきながら、今になってわかり始めたことがある。
まだら模様になっているが故、対処に悩むのだ。
全くなにもわからない、なら諦めようもある、もう少し冷静にもなれる(のかもしれない、あくまでも想像だが)。でも、そうではない。時には通じる、普通に。そして時には通じない、予想外に。だから厄介なのだ。
調子に乗ってあれこれ話を進めると、実はなにも伝わっていない。言ってももうわからないのかと諦めかけると、実はわかっている。翻弄されてしまうのだ。そして歯がゆさにいたたまれなくなり、いらつき、憤慨し、打開策を探しうろたえるが、なにも変わらないことを悟るにいたり、疲弊し、萎えるのだ。
再びあの場面が思い起こされる。以前、親戚のTさんから受けたアドバイスを携え、包括センターまで相談に伺ったときのこと。あの時 包括さんが何気に発した言葉。
認知症の方との話のやりとりはなかなかうまくはいかないと思います。
私は、神棚への供物等を揃えるため外出し、その途中妹にメール連絡を入れた。いつ帰るのか、時間があれば外で落ち合って話をしようか、と。
すでにXX時の切符をとってあるというので、それでは一旦私が戻り頃合い見て二人で家を出、最寄り駅で、ということで話がまとまる。
その後家に帰り神棚周りの準備を終える。
母と二人で昼食にやわらか弁当を食べようと解凍を試みたが、家の電子レンジが旧式で時間指定の仕方がわからずあきらめた、という妹。3食分が解凍すべく冷蔵庫に移されていた。
母さん、今晩間違いなく食べてね。一旦解凍したのを再冷凍はできないからね、と念押したが、多分記憶には留めてくれないだろう。
最期の思いを込めて、例の付箋に「やわらか弁当、冷蔵室」とかいて、目に付くようコタツ台のテーブル上に貼った。が、30分も経たぬうちに
「あれ?これなにかね?」
を繰り返す母。
「冷蔵室にあるやわらか弁当、必ず食べてね」
を淡々と繰り返す息子。
そして時々に母が織り交ぜる
「あなたが食べればいいのに」
にまたまた不覚にもいらつく私・・・
疲れる。
そうこうしているうちに”その時間”となり、
「そろそろ帰る時間だわ」
と切り出した妹に呼応するように、
「じゃあ、一緒に出ようか、タクシーで行こう」
と私。
5分もしないうちに到着したタクシーに乗り込み実家を後にした。
- その3へつづく -