1週間ほど前、3連休突入でざわついていたとき、
始発列車に乗り込もうと東京駅新幹線改札に群れる人々の様子がYouTubeに上がっているのを見て萎えた。特に京阪神方面を目指す利用客でごった返した、とあとから耳にした。
緊急避難的に平日帰省を考えねばならぬのか、それとも3連休最終日は状況が沈静化するのか・・・
それを幸運と言っていいのかはさておき、答えは後者と出た。
東海道線でないせいか、その連休最終日、東京駅始発の下り新幹線はさほど混んではいなかった。
対して、上り線は指定席が5割ほど埋まった時間帯もあったようだが、僕は“ことなきを得ず“空いていた線を利用し東京駅まで戻ってきた。
施設の面会制限が続き、振り返れば数ヶ月、母とは会っていない。
認知症の進行状況が不安でないと言えば嘘になるが、多くの高齢者が集う施設にこの状況下に“侵入“するのは避けるべきかな、との思いが勝る。
最悪感染者として、そうでなくとも自身が媒体となり取り返しのつかぬ事態に繋げたくはない・・・。
連休後1週間余りが経過、状況は再び悪化しつつあるようだ。
都の100人、200人という感染者数に慣れてしまった風を見せていた人々と、そんな状況下で尺をとるほどのインパクトが無いと判断したのか学術会議ネタばかり報じていた提灯筋、そして機に乗じた政を司る面々、皆が思い出したかのようにあの人が、この人が、と文句の大合唱を再開している。
何も変わってはいない。
本当に(←あまり適当な言葉ではないが)心底苦しい、困っている、そんな人達は文句を言うことも、その余裕さえない。
世の中に蔓延する文句の大合唱など届かない、多くの人々が目を向けることのない暗い路地裏で、その瞬間も叩かれ、腹をすかせ、人に言えぬハラスメントを受ける人達が声上げることなく蠢いている。
繰り返し言おう。
この世に性を受けわずか数十年、そんな僕でもこれまで生きてきて、唯一知り得たことがある、それは、切羽詰まった時にこそ素が出る、ということ。
それは個人にとどまらない。世の仕組みのある部分が実際どんなものかが露呈したりもする。
これまでの、そして今この状況を、不幸にして巡ってきた最悪の状況と捉え打ちひしがれるのか、世の中の様々な部分、或いはこれまで気づかなかった別の一面・・・「素」、本性を垣間見る類まれな一場面と捉えるのか、捉えようは色々あるのかもしれない。
さあ、しっかりと目を凝らして見ておこう。
今回も、そう、今回もだ・・・
それを忘れることなく心に留めておこう。
まさかという坂はどこにでもある。
地震も津波も、台風も、次から次へ”まさか”という僕らの「これまでに倣う」甘えは悉く打ち砕かれてきた。
それでも、大抵の場合、人生は続く。
これまで、そしてこれからの、多分、数ヶ月間も、僅かなりとも表に姿を現す「素」は、これからの自らに、今回こそ僕らの社会に、幾分かの影響を、そして叶うことなら指針を与えてくれるものと信じたい。
ー かませ犬 ー
Wikiより
『かませ犬とは、本来は闘犬において調教する犬に噛ませて自信をつけさせるためにあてがわれる弱い犬のこと。
このような闘犬用語から漫画やアニメなどで主役格や敵の強さを際立たせるためのやられ役、引き立て役のことを言う。』
この「かませ犬」という言葉が何故か頭から離れない・・・乱暴なこじつけに過ぎないのだろうが。
Covid-19は依然未知のウィルスのままだ。
しっかりとした感染対策?
誰もが口にする、それはマスク、手洗い、密を避ける、ことだと。
それはこれまでの、すでに一般化しているウィルス、インフルに対する策と変わりはない。今は感染症に対する一般的施策に倣うしかないということか。
それ以外、明確なことは何もわからない=言えないので(今風に言えばエビデンスがないので)・・・薬が出るまでそれでなんとか耐えるしかない、
それが実情なのだと大抵の人は独り合点の状態にある。
けれども・・・だ
では、果たして「しっかりとした」というのは何か? その捉え方には大きなばらつきがあるように思える。
「しっかりとした」対策をとっているつもりでも、実際そうではなかった、そんな例が万とあるに違いない。
その按配についてのところを、「しっかりとした」の一言で体良くかわしてはいないか。
本当のところわからない・・・
わからないことを公言すると批判を受ける、責任を被ることになる
・・・ので「しっかりとした」の一言で皆体良く済ませているのだろう。
どこぞでクラスターが発生した、誰々が感染した、そんな報ばかりを耳にするが、
では、クラスターの発生したところと発生していないところで違いは何なのか、
そこが表に出ず人々にお店に施設に共有されないから、
一足飛びに「しっかりとした」対策をしていないから感染したという、短絡的な判断・曲解で終わってしまっていることはないのか?
マスク、手洗い、密の対策は取っていたつもりが感染した、クラスターが発生した・・・それは恥ではない。何故そうなったかをどう次に「速やかに」生かすか次第でそれは貴重な指標となり得るはず・・・。
なぜ日本人は失敗を恐れ、それを恥とする?
失敗を過度に恥じることなく、むしろ失敗を重ねることこそが成功への近道ではないのか?
ふた昔以上前、海外の技術者が言っていた。
およそ似たような事を、たくさんの日本人が様々な現場で指摘されてきたはずだ。
が、いまだに脈々と続いている。
失敗は嫌だ、恥だ、責任を取らされる
責任は取りたくない
ので・・・誰も動かない、何も動かない・・・そうなってしまったのか?
いったいいつから文句ばかり、非難ばかり、(責任の押しつけという)責任追求ばかりするようになったのか?
更に厄介なのは、すべからく大凡のところ一億総国民の「誰もが」いわば硬直状態にあることなのかもしれない。
どこぞの知事や政治家に文句ばかりの媒体や評論家(その中身にケチをつけるわけではない)に溜飲を下げ、それに倣って好き放題言ったところで何も変わらない。
生かさなければ、指標になり得ない・・・
にもかかわらず 何かにつけずーっとこのまま硬直状態が続いていくのだろうか。
誰かが何かをしてくれるのを待つ・・・そして結果はその誰かの責任・・・
きちっとしろ、未来を示せとテーブル叩くコメンテータ、この結果はあいつのせいだ私の言ったとうりになったと言う評論家・・・
そんな堂々巡りがこれからも続いていくのだろうか。
続いていく明日があるのなら、それは明日があるだけ、まだしも・・・
その「まさか」が津波だったら、誰かの判断を待つ間もなく呑み込まれてしまう。明日は来ない・・・。
わざわざ噛まれようと土俵に上がる犬はいない。
目の前に大好物の食べ物をぶら下げられたとき、本能が理性を越え行動を起こしてしまう、それが生き物の性なのかもしれない。
まぁ噛まれたところで大したことはないさ、と高を括っていたら・・・
そんなところか。
もう十分、敵の強さは際立った・・・そう思いたい。
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これを書きながらNHKの青年の主張を視ていた・・・
少々救われた・・・