それ 認知症かも

認知力の衰えを頑なに否定する年老いた母。それを反面教師に自らのこれからを考える息子。

「パーソンセンタードケア入門」を読んで・・・②



「認知症の介護のために知っておきたい大切なこと パーソンセンタードケア入門」を読み印象的だった部分、について書きとめておきたいと思います。

 

第1章 認知症にとらわれずにその人を理解することから始めよう

割愛 

第2章 ひとくくりにしないで!一人ひとりがかけがえのない存在です

自分史は年齢問わずすべての人に大切なもの。現在のことに混乱している人が、ずっと昔のことをよく覚えていることがよくある。周りがこれを生かす手助けをしてくれれば、すばらしい資産の一つになる。写真、洋服、大事にしていた持ち物が価値ある物になる。

人はそれぞれ独自の個人的「現実」を生きている。それを忘れてしまうために、多くの誤解や対立が生じる。えてして他人が自分の「現実」を共有してくれると思いがちで、もしそうでないなら、そうすべきだと考えてしまう。

知力が衰えている人のケアで、私たちが「事実」と考えるものについて論争するのは無意味。その「間違い」の中に、大切な意味がこめられているのかもしれない。

一人ひとりに自分にとっての「現実」があり、それは知力の衰えている人にも当てはまる。私たちの既成のものの見方や判断基準でなく、相手の現実に対応するとき、そこに新しい人生と希望が生まれる。

 

第3章 認知症のあんなとき、こんなとき・・・介護者はどうすればいいの?

脳細胞の損失は知力の低下を招くかもしれないが、注意・敬意を払わないことで人格の崩壊を招いてしまうことになれば、それは私たちの失敗。

私たちがどう接するか、または無視してしまうかで相手の障害を実際に悪化させていたり、認知症を悪化させてさえいる。手を差し伸べ、励まし、支えることで、脳損傷の影響を和らげることができる。

そうありたいと願うほど思いやりをもてない、うまくできないときもある。自分の失敗を許し自分が完璧でないことを受け入れもっとよくできるよう学ぶに越したことはない。

よくないケアとは;

✔ ごまかしたり、うそをついたりする

✔ その人が自分でできることを代わりにやってしまう

✔ 幼い子供程度の能力や経験しかないように扱う

✔ 権力・脅しで心配させたり、不安にさせたりする

✔ きちんとした人間ではないというレッテルを貼る

✔ 責めたり、何をやった、やらなかったという非難を浴びせる

✔ 本当に理解できるよう、ゆっくり話したり単純な話し方をしない

✔ 何か認められないことをしたからと言う理由で、仲間外れにしたり追いやったりする

✔ 気持ちを無視したり、真剣に受け止めない

✔ 生きた、感情のある人ではなく、物や動物のように扱う

 

何時間も人との本当のふれあいなしに過ごさなければならないと落ち込んだり絶望したりする。一人暮らしの人にこういうことが起こるが、質の低いケア環境にある人にもまた起こること。

認知症は単に脳損傷の結果ではない。人の思いやりのなさや無視が、混乱に拍車をかける。

 

時として”その人“が鬱病であるかのように家族介護者には見えてしまう、そんなことはないだろうか? 

f:id:masakahontoni:20200216164103j:plain引きこもり、殻に閉じこもり、不機嫌そう(=楽しそうではない状態)にしている・・・確かに、鬱と認知症の症状には”隣り合わせ“の部分があるのかもしれない。

でも、もしかしたら、それは脳損傷だけが原因ではなく、”質の低いケア“状態”に放置されたが故の部分もあるのではないか?

独り住まいの母が見せていたあの周辺症状、なかば常態化していた最も悩ましかった部分が、施設入所以降これまで沈静化していることを見ても、”あの頃“の母を取り巻く環境が決して適当なものでなかったことは明らかだ。

今更ながらそう思う。 

 

第4章 大切なのは仲間がいてくれること、そしてふれあいがあること

感情をつかさどる脳の部分は、思考をつかさどる部分に比べ損傷を受けにくい。介護者は被介護者の感情に特に敏感であるべき。

おそらくもっとも大切なことは、混乱した人は言葉以外のものに大きく依存しているということ。イライラした声の調子や鋭い身体の動きは、相手(=混乱した人)を認めていない、我慢できないと受け止められてしまうでしょう。

 

f:id:masakahontoni:20200216163226j:plain“あの時“、母には私の言葉が通じる、通じるはずと思いこみ、ただただ硬球を力任せに投げつけ、ぶつけ続けていた。

ボールが投げ返されてこないことに愕然とし、時に子供騙しと思えるようなゴムボールが代わりに転がされてくることに私は憤ってばかりいた。

もしかしたら、”混乱した“母が依存していたのは“硬球“以外のものだったのかもしれない。

母が感じ取れたのは、私が投げた硬球そのものではなく、 “何か“を投げ続ける私のイライラした声の調子や身体の動きだけだったのかもしれない・・・

 

- 「パーソンセンタードケア入門」を読んで・・・③へつづく  -