それ 認知症かも

認知力の衰えを頑なに否定する年老いた母。それを反面教師に自らのこれからを考える息子。

「パーソンセンタードケア入門」を読んで・・・①

  • f:id:masakahontoni:20200212120532j:plainユマニチュード・・・フランス由来
  • バリデーション・・・米国由来
  • パーソンセンタードケア・・・英国由来


一時期TV等で紹介され話題となったユマニチュード。
どのように母の症状が進行していくか予想できない以上、何某かの心構えになるのなら、それなら早い方が、と関連本を買い求めた。

 

f:id:masakahontoni:20200211185019j:plain素敵なパッケージに包まれた世評の高いそのケーキ。

漂う香りが興味を誘う。

でも、試食は許されない。その包みさえ開けられる事もない。

どんな”姿”か見たければ、実際の味覚をその舌で感じたければ、自らケーキ作りを体験したければ、まずは会員になってセミナーに参加してね、と諭される。

味わって後悔するようなケーキではないのだろう、いや、そうに違いない、でもその姿形ぐらいまずは見せてくれても、といった喉の渇きばかりが残った。

特長的・際立った部分の説明こそある。それはそれでありがたく、想像する手助けにもなる、でも各様の解釈で僅かなりとも噛み砕いて自らの想像と対比してみることはかなわない。

今でもどんなものなのか、興味はある。

が、会員制セミナーへの参加にまでは・・・。

 

そして手に取ったのがパーソンセンタードケア。

認知症の介護のために知っておきたい大切なこと パーソンセンタードケア入門、出f:id:masakahontoni:20200212162106j:plain版社・著者こそ違うがよくわかるパーソンセンタードケア・・・2冊を合わせ読んでパーソンセンタードケアの”両輪”(バランスよくという意味合いで)らしき部分がそこはかとなく感じとれ、乾き続けていた喉が暫しの間癒える思いさえした。

駆動エンジンに直結した”後輪”まで、とはいかずとも、パーソンセンタードケアの”前輪”部分がどういう方向を向いているのか想像するこができた。

 

パーソンセンタードケアとはどのようなものかを”感じたい”人なら「よくわかる~」がまずは適当なのかもしれない。観念論のみならず具体的にはこんな風といったところを”感じる”ことができる。

掲載されたいくつかの例は悩みを持つ家族介護者に何某かのヒントを与えてくれることもあるだろう。

 

「パーソンセンタードケア入門」は、「よくわかる〜」と対になる、パーソンセンタードケアのもう一方の車輪、精神的な部分についてのものだ。

そしてその第13章「よいケアをしていくために、介護者は自分のことにも目を向けよう」には、介護する側”自身”のことについてまでも書かれている。

どのように介護したらよいか、するべきか、についての本はたくさんあるが、その介護を行う人(家族)について 章を割いてまで言及しているものは少ない。そこがこの本の特徴的なところ。

 

「パーソンセンタードケア入門」では、”その人”のことを「混乱している人」と表現し、

筆者が家族介護者に冒頭でまず問うた事、それは;

デイサービス、ショートステイに通っている、or 既に施設で介護されている、”その人”に合ったケアが行われるよう手助けしていますか?

ということだ。

家族介護者として、委託先に情報提供しているか?
ケアスタッフが無神経に触れること無いような事情・過去を知らせているか?
それらについてケアスタッフともっと話をすることができているか?

ということだ。


一方、ケアワーカーには”その人の”何を知っているのか、それらを自らに問うてほしいと記し、こう結んでいる。

個人として扱うよう努めないのは、質の低いケアのしるし。そこでは人々をひとくくりにして、集団として扱う。

本当のケアの仕事とは、個人を決まった日課に適応させることではなく、決まった日課を一人ひとりのニーズにできるだけ合わせようとすること。一人ひとりに自分にとっての「現実」があり、それは知力の衰えている人にも当てはまる。

私たちの既成のものの見方や判断基準でなく、相手の現実に対応するとき、そこに新しい人生と希望が生まれる。


反発される向き・現場もあるだろう、それでも、いかなる現場・現実があろうともそういう信念は心に留め置き続けることが肝心なのだろう。

f:id:masakahontoni:20200212160054j:plain個人情報保護に神経質な状況下ではあるが、”その人”のことを何も知らずに、通り一遍の介護サービスではうまくいかない、かえって周辺症状を不用意に悪化させてしまう、そんなことが予想外に増えてしまう、そんなことが往々にしてあり得ることは容易に想像できる。

逆に言えば、”可能な範囲で”何をいかに共有できるか、そんな共有できるケアワーカーなのかも大切なことなのだろう。

 

今現在の私に想像できうるのは、

ケアワーカーにとっても、あまりに個人的な部分に踏み込むことは ともすれば危険であって、巻き込まれすぎない、一定の距離は取りつつも、”その人”に合った対応を如何に図るか、というのが専門職ならではのものなのかもしれない、

ということ。

果たして私のその想像が的外れなものなのかは追々わかってくることなのかもしれない。

 

- 「パーソンセンタードケア入門」を読んで・・・②へつづく  -