先日、母を見舞うため 乗り込んだ新幹線の車中でこの↓ブログを目にした。
8050問題、8060問題、7040問題・・・数字は年齢だ。8050なら親が80歳、その子どもが50歳。子のひきこもり、そしてその親の介護、という問題・・・。
8050問題・8060対策~とは全く別の話題になってしまいますが・・・
その8050、8060、7040、という数字から思い起こしてしまった本がある。
その著者が挙げていたのは、205080。
老親80代、その子50代、そしてその子(老親から見れば孫)20代という構図。
「本書は50代以上の人を対象に書かれた」というこの本、50代以上が当事者ということなら、50代それ即ち待ったなしということで、実のところそれ以前の年代こそ目を通しておくべきなのかなと思う。
ただ、現実味、という点で、その年代方々がこの本を手に取るのかは、?がついてしまうのかもしれない。それにこの著者の方は結構表現に毒がある。それに拒否反応があるとなかなか読み進めるに躊躇してしまうかもしれない。
著者は「双子のダルマ」と呼んでいるが、20代・50代・80代=子ども、自身、老親 という家族構成に該当する多くの人に、
- 今老後の方針を決めておかないと、子どもまで引きずられ3世代巻き込む問題に発展する危険性ありますよ、
- 双子のダルマが倒れる時がきてしまいますよ、
と警笛を鳴らしている。
人生100年時代となった今、
- そのキーマンは50代で、その50代が動かないと、30代・60代・90代となってからでは遅いですよ、
- もう50代の”今”が限界ですよ、
というのだ。
世界に冠たる長寿大国ニッポンと言われるに至ったこの国は、確かに”長生きと引き換えに様々なリスクを抱え込んでしまった”、のかもしれない。それは
- 寝たきり、
- 認知症、
- 終のすみか
といった介護問題だ、と著者は指摘する。
配偶者とは死別、子どもは巣立ち、一人暮らしに広すぎる家でどうにかこうにか暮らしているという現実。
だからといって、高齢者施設は介護色が全面に押し出され、介助要する人たちと暮らすには抵抗感がある。
国はサ高住を押し進めるが、補助金・税制優遇目当てで有象無象入り乱れ参入、結果、医療・介護必要とする重篤な人向けのものと化してしまった。
著者は言い放つ、
「国に期待するなかれ」
と。
日本に国家戦略などなく政治家は失票恐れ皆に美味しいこと言うばかり。未来に光など見えてはこない。
その昔、メディアの作った「勝ち組・負け組」なる造語があった。
仮想対称軸or対立軸をつくり煽るのがメディア・媒体の常套手段だと私は思っているが、大抵の場合エンタメ的意味合いの強いものが多かった。
ただ、著者呼ぶところの「B層」は少々、切実度が異なる。
著者はこう説明している。
B層とは、自ら学ぶことなく、メディアから垂れ流される報道だけを鵜呑みにする大衆、TV好きで、洗脳しやすい人のことだ。
一億総活躍社会?、介護離職ゼロ? 騙す方も悪いが、騙される方も悪い。
幸福を国に求めたり、不幸を国のせいにすること自体が間違いだ。
シニアも、障害者も、母子家庭も、全部大切と言うけれど、実際のところ予算配分の優先順位は低いじゃないか。
そんな話を聞いて憤慨する人はすでにB層、
というわけだ。
長寿、長寿と言うが不老長寿になったわけではない。平均寿命と健康寿命の差を見れば現実がわかるはずだ。
老老地獄には三つの要因がある、
- 医療高依存or要介護状態の老親(配偶者)を
- 経済的にゆとりのない子ども(配偶者)が
- 「自宅で」支えざるを得ない状況
はじめこそ賢明に支えようとする子ども(配偶者)
→いつ終わるともわからない介護生活
→かわいそうからいつまで続くんだという感情が膨らむ
その一方で、
- 歳を重ねるにつれお金を最期まで抱え込んでおこうとする
- 「子どもが親の面倒を見るのは当たり前」と言い放つ
- 金の話は抜きで面倒だけ見ろっていうのか、と子ども(配偶者)が感ずる
そう感じたときから危機が生まれる。老老地獄問題の根底には、老親の驕りと勘違いがある、というのだ。
「親子関係の悪化」に苦慮しているシニアが非常に多いが、子が親の面倒を見るのは当然などというのは過去の話。現在の老親世代が若かった頃とは違う。金銭的裏付けを示すこともなしに「親の面倒を子が見るのは当たり前」などと言っているから老老地獄になる。
”親子関係のあり方も従来とは変化して考えるべき”なのは確かだと私も思う。普遍的な部分と変化する/変化した部分、それらが共存して混沌としている、そんな気がする。
問題意識が高かろうが低かろうが、情報収集して勉強をしようが、いざというときに学んだことを生かせない。多くのシニアはそんなとき、子どもたちの携帯を鳴らしまくる。その頻度が高まるに比例して親子関係がおかしくなっていく。そしてとどのつつまり頼れなくなりあせってババを引く。専門家もどきに騙され後の祭りとなる。老後問題は複雑で専門性が高い。
「老いて学ぶことの限界」と著者は断言しているが、老いてから学ぶことの限界という意味では、50代がもう最終段階ということなのだろう。
そして更には、学ぶことの限界、も存在すると著者は主張しているわけで、事はこちらの方が厄介だ。
年金然り、”この国の仕組み”は単純ではない。いや、意図的に複雑にしているのかなとうがった見方さえ時としてしてしまうくらいだ。
確かに、自ら動かない限り行政側からあなたこれがまだですよ、とか、あなたこういう方法がありますよ、こちらの方がお得ですよ、大丈夫任せて下さい、なんて声がかかることは絶対無い。
では、微に入り細に入り皆が事細かに独学で、ということも難しい、限界があるというのが著者の主張なのだろう。
ここからが著者の主張する本丸?となる。
超高齢社会は自衛社会である。
- 国や子どもには期待できない。
- 老いに備えるということは学習することではなく、老後の伴走者/パートナーを確保し専属契約しておくこと。
円滑な老後を阻む4つのC;
- Cure 医療
- Care 介護・福祉
- Cash お金
- Ceremony
元気なうちから立場・方針を決めておく。65歳過ぎで勉強していざというときに生かせるかというと難しい。机上で学んだ知識を、その時、速やかに実行できるのは、せめて50代まで。
ではそのパートナーとして適当なのは誰なのか?
■ケアマネ(介護支援専門員)?
→ 要介護者のみ対象
■対象地域支援包括センター?
→ 要因不足・知識不足
■福祉相談会?
→ 期待はずれ
■かかりつけ医?
→ 生活習慣病の症状に薬を処方するのみで原因をみつけてはくれない、未然に防ぐ方法も教えてくれない
■信託銀行?
→ 富裕層向け、慇懃無礼な側面
■外資系FP?
→ 同上
■弁護士?
→ 高額
■生保?
→ 無償24時間相談も総花的・表層的な回答
・・・。
それは社会福祉士(ソーシャルワーカー)だ、と著者は言う。(著者もソーシャルワーカーだ・・・)。
けれども私自身はその提言をまだ消化し切れてはいない。
今のような状況に置かれているとソーシャルワーカーの方と接触する機会は多い。これまでお世話になった・なっている病院ではもれなく、相談員という名で社会福祉士を院内に常駐させている。ただ、それぐらいしか接触の経験がない。
都心のみならず地方でも、社会福祉協議会なる施設が目につくようになったという認識はある。でもその門をくぐったこともなければ、独立した社会福祉士の方とお会いしたことすらない。
となると、弁護士等々同様に、「人によるんじゃないかな」と漠然とした懐疑的な思いしかない、というのが正直なところ。
想像するに、著者は過去の体験から積み上がった、怒りにも似たフラストレーションがあり、その一つ一つをこの本を媒体としてはきだしている、ようにも思える。
そしてその思いのいくつかはまさに私自身のフラストレーションでもあった・あるわけで、それが、著者がいくら毒づこうとも、いくつかの点においては ある種の共感に似たものを感じてしまう所以なのだろう。
- 一億総介護時代or一億総認知症時代がくる。
- 気づいているけど口にしないこと、それは国にも子どもにも期待できないということ。
- 自分のことは自分で守る。
- 在宅介護も潮時を考えよう。問題行動伴う認知症患者(全体の2割)を家族が自宅で介護するのは無理。
- 気持ちを強く持って良い方向に持って行こうとしても、結局はむなしさだけが残り終わる。そこで燃え尽きてしまうと、哀しい顛末を迎えてしまう。
- 認知症患者と二人きりの時間を多く持った家族は、その後、自身が認知症を発症するケースが多い。
- (経験的に)来る日も来る日も介護をし疲弊していく女性陣と、信じられない光景を目のあたりにすることのない男性陣の間で、確実に温度差が生じ、夫婦・親子関係までがこじれてくる。
- 問題行動の根っこには、過去のネガティブな記憶が関わっているように思えてならない。
- 「介護離職ゼロ」は、絵に描いた餅。介護職に就こうという人がいない+働ける世代が足らない。介護される側とする側と人数が違いすぎる。
- 尊厳死・延命治療の善し悪し、そこまで突き詰めて考えねばならぬほど、切羽詰まっている。
- 介護職の心の奥底に潜むもの。「仕事かきつい」とは、くさい・きたない・気持ち悪い。
- 老老地獄、哀しい事件の被告となってしまった人の動機を突き詰めると、来る日も来る日も下の世話。
- あれっ?何か変だな、と思ったら即SOS。
それでも、思いがけず先日見てしまったNHKの番組で不覚にも泣いてしまった自分も一方にはいるわけで・・・。まさか涙など自分にはもう存在しないものだと思っていたが、途中(32分20秒あたり)から出てくる娘さんの純な声が耳に響きどうしようもなかった。