高齢者の立場の変化
高齢者に「いい年をして・・・」「年甲斐もなく・・・」などの言葉が投げられることがあります。
戦前の日本には、儒教思想に基づいて、老人をいたわり養う「養老」や、老人を敬う「敬老」といった考え方が広く行き渡り、根付いていました。
また、家制度の中では家父長制が敷かれ、課長は高齢になると隠居し、知識や経験豊富な長老として若い世代からの尊敬を集める存在でした。
しかし戦後、新しい民法によって家制度が廃止されると、家意識から夫婦を中心とする家族の考え方に変わり、夫婦と未婚の子ども世帯からなる核家族化が進みました。その結果、高齢者に接する機会が減り、養老や敬老の意識が薄れてきたと考えられます。
テキストを読み始めすぐに ↑このような箇所にぶつかった。
ちょっと待てよ、と。果たしてそうだろうか、と。
核家族だから、そうなのか?
いや、それは当たっていない、と言うのではない。
が、それでも何かがひっかかるのだ。それとも、私がずれているのだろうか。
高齢者への尊厳が薄くなりつつある、ことは確かにそうだと思う。
でも、それが、薄れたのは「年の功」伝説の崩壊にあるのだと、言ったらあなたはどう感じますか?
私もその昔、高齢者に「一目置く」という、内心どこからともなくわき出る思いがあった。だから、”意図的にコントロールできない私の奥深いところ”でそれがなくなったわけではない、という意味では、実は今も基本的にはそういう思いがある、と言えるのだけれど・・・。
数年前、TV画面の向こう側でコメンテーターが、「長生き、という事実そのものに有り難さがあった過去に比べ、高齢者の数がこれだけ多くなると、希少価値という側面でのその重さが軽んじられる云々」的な発言をしたのをうろ覚えながら今も心に留め置いている。
なるほど、数の上では、というのも着眼点になり得るのかもしれない。
おそらく、年代問わず多数派の考えなのだろうと想像すること、それは;
”敬われるべき対象であった高齢者の、"お痛"がそこかしこで起きていることが、とりもなおさず「高齢であること」と、「敬われる対象」がそもそも一致するものなのか、という原点に回帰している、いやそれがよりクローズアップされてしまっている、のではないか、
ということ。
そりゃそうだ、教師、医師、国会議員からありとあらゆる職業問わず、そして年齢問わず、痛いやつは痛い、事が、わかってはいたが、これだけ昨日はあれ今日はこれ、と刷り込まれると、高齢?だから?的な感情がともすれば根付いてしまう、ことに驚きはない。
核家族化が進み、高齢者との直接的なつながりがなくなり、云々はわかる。それは、あたかも、人種間の接触が希薄であるが故に、何々人はああだこうだ、という一部の方のヘイト的思考/文言傾向にも似ている。
でも、それだけではない、という思いが、テキストのこのページでハタと私が固まってしまった所以であります。
異民族間であれ、異なる年齢層の間であれ、結局のところ、痛い相手では尊厳も尊敬もあったものではない。
類推するに、痛い高齢者は昔にも存在していたはずなのだ。長生きする/できること自体が希少であった当時に比べ、多くの者が長寿化傾向にある今、比例してなのかはともかく、相応に多くの痛い高齢者が浮き彫りになるのは至極当たり前のことなのかもしれない。
しかも、媒体網がはりめぐされた今時なら、あっという間に一つ一つの事態が拡散される。万民の知るところとなるわけだ。
いやいや、そういう面をふまえた上で、最終的には「核家族化によって」の表現に帰結するのだよ、と言うことなのかな。そしてそこをどうつなげるのかを期待されるのが認知症介護士なんだよ、ということなのか・・・?
通信講座には、質問制度というものがあり、会員サイトから独学を進めていく上で質問などを随時できるようなシステムがある。が、こんな質問したら何のことはない、痛いのは私、になってしまうのかも。晴れて痛い高齢者の仲間入り、とならぬよう質問するのは思いとどまりたい。