道すがら書店などがあると思わず入ってしまう。
かといって衝動買いする、わけでもない。
一通り店内をぐるっと回り、目にとまったものはメモ、
後で調べてそれでも読みたい、となればネットで注文する。そんなパターンが多い。
書店には歓迎されない「ひやかし客」だ。
店内の目立つところに、売れ筋の書籍が10位から1位まで並べてあったりする。
その中に、ふと目についた何冊か・・・例えば今回なら、現代語訳・論語と算盤、スマホ脳、脳寿命を延ばす、在宅ひとり死のススメ・・・その中にこんな本があった;
目次辺りをパラパラとめくってみる、
1章 学校で、なぜ女子は男子の次?
生徒会長はなぜ男子だけ?
男らしくしてなきゃダメですか?
色にも女の子色、男の子色ってあるの?
理系研究者は男子が目指すもの?!
名簿の一番はなぜ男子?
バリバリ働けない人は?2章 家のなかでモヤモヤするのはなぜ?
・
・
等々、4章からなる。「女の子達」対象に書かれた本らしいが、
男の子達、いや、今風に言うなら、性別問わず(=そのまま大人にならないうちに)読んでおいて良さそうな気がする目次・・・。
この本が「今」、この書店でベストセラーになっているのは、やはり、「あの人」の件があるからなのか? 頭の中でそんな茶々を入れつつ、スマホに書名を書きとめた。
政治家のポロリ発言が絶えない。
何故?
言った後から後悔する、切り取られた言葉が まさかそこまで拡散・拡大してしまうとは思いもよらず、火消しに苦労する・・・
今に始まった事ではない。
いつもそう。
延々と同じようなことがこれまで続き、そして、多分、
これからも続いてしまうのかもしれない。
何故?
それは、何かが変わっていないからなのだと思う。
「延々と続く状況」を取り巻くものが変わらないから。
そんな気がする。
行き着くところ、変わらないその根本にあるのは、私たち自身だった?!
・・・というところ、
とんでもない発言だと文句を言っている自ら、或いは
自らが浸かっている環境そのものに行き着いてしまうことに、
気づき くらくらと目眩がする・・・そんなことは無いだろうか?
記者が放つ質問の矛先は相変わらず、事態の本質とはズレたそんな隅の方に向けられる。
性差別だ!ジェンダーギャップだ!
あなたのような立場の方が、今時まだそんなことを!
と追及・非難が渦巻いているけれど、
その問題の根源はお立場に左右される土俵の上のことなのか?
誰かが謝り、
誰かが辞め、
喉元過ぎれば、またこれまでのように、何も変わらぬ日常が延々と続いていってしまうのではないか?
ばかりを質問する方達の属する組織ではどうなのだろう?
「失礼な!そんなことは既に対処済みだ、当社内にそのような問題は既に無い!」
のか?
「社員の性別、ポジションで不都合が生じる土壌は既に消滅している」
のか?
煽られ憤慨のやり場に苛立つ人達の家庭ではどうなのだろう?
妻、夫、子ども達、で性別、年齢、等々によって不都合、不平等、不利益が生じる土壌はもう無いのだろうか?
男のくせに、女のくせに、が口癖になっていないだろうか?
過去同様、
今回もこの問題が一政治家(元政治家)の失言、責任に終始してしまうのだろうか(してしまうのだろう、と思うが・・・)
それとも、大どんでん返しでも起きて、何か一つの「契機」となるのだろうか?
笑い話のようなお話を、TVのワイドショーを見たという人から伝え聞いた・・・
あの森発言に「とんでもない!何を言ってるんだ!」と憤っていたご主人が、
傍らの妻に「おい!飯はまだか!」と言ったらしい・・・
それが現状なのかもしれない。
日本人は「外からどう見られているか」に敏感な民族だと言われる。
海の向こうから非難を受け、最低限、どうにか「取り繕う」手が打たれはするのだろう。
それが体面上の取り繕いで終わるのか、一人一人の胸の内に変化をもたらしそれが行動となって現れるところまでの契機となるのか・・・それはわからない。
振り返れば、こうなる(コロナ禍)前、至る所で噴出していたのはスポーツ界におけるパワハラ問題だった。
槍玉に上がったいくつかの氷山の一角は崩れたのかもしれない。
ではもう、日本のスポーツ界から「悪しき慣習」化した状況は消え失せたのだろうか?
切羽詰まった時、本当の素が表に出てくる。
オリパラを前にはからずも出たもう一つの膿なのか?
今回もそんな例なのか、いや、単に、一高齢者の特異な振る舞いごとに過ぎないのか?
「高齢な」と書いたが、誤解しないでほしい。年齢で様々なことが全て決まっているかのように誤解してほしくはない。
若いから、年老いているから、で「差別」に対する程度が決まっている訳ではない。
若くとも差別的思考の人は山のようにいるし、老いても人の価値を性別で判断などしない人も多数いる。
それでも、さすがに、高齢になれば肉体的な衰え、というギャップ、は避けようがない。
今回の元総理については、
痩けた頬、包帯を巻いた手首、
ここ数ヶ月その立ち姿は痛々しくもあり、健康状態が心配になる出で立ちだった。
一説によれば人工透析を受けるためのシャント手術を受けており、手首の包帯はそのカバーとして巻かれているらしい。
人工透析が必要になる高齢者は多くいます。この記事では、人工透析導入患者の年齢や性別などデータのから、人工透析が必要な高齢者にとって必要な介護サービスや介護施設への入居について考えていきます。
老いた高齢者への批判ではない。当人は気力振り絞り最後のご奉公的意識でいるのかもしれない。
指摘されるべきは、そのような人が駆り出されなければ、物事が動かないほど、
組織・社会における「高齢化(これは悪い意味で)」が進んでしまっているのか?
ということ。社会の石灰化・硬直化と言ってしまって良いのかもしれない。
唯一無二の存在として任命された方、その者になら首を縦に振ってやろうという方、取り巻く環境が硬直化している、少なくともしつつあるのではないか、ということだ。
「生ける化石」について生物の授業で学ぼうというのなら、興味深く耳も傾けたい。
ただ、私たち自身の日常が、
深海の底で構えるシーラカンスがどちらに動くのかを見定める、
それが動くなら動こうかな、海の底から波動がゆっくりと時間をかけ海面に現れる時を見定めてから動こうかな、
というようなものであっては困る。
動かぬ海底のシーラカンスは、既に化石化しつつあるのかもしれない。
もしそうなら永久に動くことはない・・・。
それが動くのをひたすら待つのか?
後継に窮した中小企業の社長が会社ごと譲渡する事案が増えていると聞く。
一から起業するよりM&Aにより独立を早期に果たそうとする若者も増えつつあるという。
何故、切羽詰まるまで後継者の育成ができなかった、あるいは、しなかった、のだろうか・・・それはわからない。
企業ならM&Aという手がある。
国家的組織に、その類の「起死回生」の手立てはあるのだろうか?
オリパラ・ボランティアを辞退する人が増えているという。
オリパラという「祭典」故に、ボランティアに何故なろうとしたのか、何故辞めるのか、その気持ちを安易に想像することは控えたい。
「祭典」ではない、一般的な“ボランティア活動を思い起こしてみる。
誰かをサポートする為に、という思いから参加する・・・
生活、身体の不自由な方を、とか、震災で困っている人を、とか・・・
団体トップが差別発言をして世間から責任を問われたとしよう・・・
もうボランティア活動はできないと、辞める?辞めない?
精神的に辛いと辞める人も、北風の吹く中 活動するのは絶えられない、と辞めざるをえない人もいる。
対象の方々をサポートするためで、団体トップの為ではない、必要とする人達を支える為、と折り合いを付け辞めない人もいる。
オリパラボランティアを辞める人、辞めない人、幾多の理由があるのかもしれない。