祭日のこの日、スーパーは混み合っていた。
人口構成比からして客層にシニア層〜高齢者の占める割合が多いのは当然なのだろうが、祭日ともなると子供連れ、そして若年、中年層も胡麻塩の如く混じってくる。
「なんだよ、何やってんだよ?」
精肉売り場を通り過ぎようとした時、突然の横からの声に びくっとした。
後ろ斜めからうかがえるその横顔からすると 年の頃70前だろうか、そんな女性が商品に見入っている
横にいる男性がその女性に投げかけた言葉だった。
「いやね、牛肉はどうしようかと思って・・・」
「何言ってんだよ、さっきは豚肉を買わなきゃって言ってたじゃないか!頭大丈夫か?」
「・・・」
息子と思しきその男、となると40前後ということになる・・・か。今日は息子夫婦共々そろってお買い物といったところか・・・。
陳列棚の前で多少腰を屈めた状態のまま数秒動かない・・・言葉に窮しているのか・・・表情のわからないその女性の後ろを私は通り過ぎた。
そんな場面に遭遇したとき、私の中に浮かび上がってきたのは
牛肉だって、豚肉だっていいじゃないか、
とか
何てやつだ
とか
可哀想
とか
ではなかった
息子と思しきその男が、やがては歳をとり、あの母親と似たような年齢になった時、全く同じように自らの子供に
何やってんだよ、頭大丈夫か?
とどやされている場面だ。
あぁ・・・こうやってずっとかわらず脈々と唯々連鎖してゆくんだ。
果たしてその日が来た時、その瞬間、あの男は気がつくのだろうか?
昔俺も同じことを母親に言っていたと・・・。
そんな情景が一瞬映し出され、すぐに消えた。
同じようなことなのかもしれない、
親からDVを受けた子が、成人し結婚しやがて自らの子供に暴力をふるってしまう。そんなことが少なからずあるという。所謂暴力の連鎖だ。
いや、俺は親から殴られもしたけど 「あれがあったから」 今真っ当に生きている。叩くのがなんでも悪いというわけじゃない。しつけとしての範囲内での叩く、はあってもおかしくない。限度の問題だ。
と胸を張る人は沢山いる。
でもちょっとまてよ、叩かれて育った自らの経験を肯定する人は・・・当たり前だが、叩かれずに育った場合の経験など皆無なのだ。
叩かれずに育ったら、あなたは真っ当な大人になれなかったのか? 叩かれ育った者にそれに答えうる実体験に基づいた根拠など何もないのだ。
そして、しつけという名の暴力の連鎖は続く。
人は誰かに線を引いてもらうことが好きだ。
この線からこっちは◯、線の向こうは×というわけだ。
不要不急の外出は控えてと言われると、早速声が上がる。はっきりしないので線を引いてくれ、どこからが不要不急なんだと文句を言う。
誰かが線を引いてくれないとどうしようもない。いや、もしかすると、誰かが引いてくれた線なら「自ら責任をとる必要がない」ので安心できる、ということなのか?
学校だってそうだ。スカートは膝上何cm、髪の毛は、あれは、これは、あちらこちらに線が引かれる。じゃあ線が引いてなかったら・・・今度は必ずや線引きしてくれないとわからない、と言うのだろう。
でも、育て方の線は”誰か”が引くのではなく、自らが引くしかない。
その人が線を引く時、その潜在意識の中にある基準らしきものは、自らでさえ -もしかすると- 意識しない遥か遠い過ぎ去りし日に ”どう育てられたか” なのだ。
私たちは様々なxx問題を抱えている・・・でも同じようなこと・・・連鎖故のものが根にあるのかもしれない・・・そんな気がする・・・