K病院に転院して2度目の見舞いになる。転院時運ばれた病室を訪ねたが、そこの名札に真坂の名前はなかった。尋ねると別の部屋に移動したという。
3部屋向こうの4人部屋、入って2番目、そこが新たな住処。
部屋に入るやいなや、向こう側に横たわる方と目が合い会釈するも、一言も発することなく そのまま目を瞑ってしまう。
母が気づく。
あぁ、突然現れるから驚いた!
表情がほころぶ。
1週間前にも来たけどね!
そうだったかね? でもね、それがどうやってここにきたかもわからないんだよ。
なるほどね。ほら、あの赤い大判ノートを見ればわかるよ。(ノートを広げ)この日にこのK病院に転院したんだよ。S病院から介護タクシーに乗ってね。
あれっ、どうしたっけな、と思ったらこのノートを見ればいい。
そうなんだ。覚えてないねぇ。
それでお父さんは大丈夫かな。こんなことになって、家においてきてしまったけど。
いや、父さんは60代半ばで亡くなった、家の仏壇の前の遺影に向かって毎朝拝んでいたでしょう?
そこへ部屋入ってすぐのベッドの方が戻ってくる。中肉中背。見たところ表情もしっかりしている。
それなんども同じことを聞くんだよ。亡くなっているのに、どうしているかな、とよく言ってる。あなたのご主人もうなくなってるんでしょ、と言うと、ああそうだった、となる。
こちらへ移動してきました真坂の長男です。よろしくお願いします。
はい。
なんか忘れっぽくなっちゃって、いったいどうしちゃったのかねぇ。
まぁ、会いたいと思う気持ちがあるから夢の中で会ったのでしょう。それはいいんだよ。でも昼間はしっかり目を覚まさないと。うつらうつらベッドで過ごしていると、夜も昼も区別がなくなってしまうからね。
夢の中ねぇ・・・。
この前 櫛が無いと言ってたから100均で買ってきたよ。ほら、ここをこうやって折りたたまれているから広げて、ここをこうすれば櫛になる。
わぁ、これは便利だ。よかった、よかった。
といいつつ、折りたたまれた状態から、櫛の部分を広げるところまでがなかなか・・・手間取っている。
さすが100均、開閉も結構力がいるのに初めて気がついた。
(う〜ん、この仕組み覚えてられるかな、これ買ったのちょっとまずったかな・・・)
それと、おなじ100均でことわざパズルの本があったから・・・昼間ぼーっとしてると脳活にならないから少しずつやってみてよ。
へ〜ぇ、こんなのがあるの。
で、足の具合はどうなの?
うん、大丈夫そうだよ。
いや、大丈夫では無いと思うよ。手術してまだ1ヶ月もたっていないからね、単に金属の棒を入れてつなげてるだけだから。安心するのは早いよ。
ここにきた日にも先生から言われていたよ、勝手に動いたりするとまた骨折する危険があると。
いや、それがこの前も勝手に動きまわって注意されてるんだよ。
そうなんですか・・・
朝の回診の時もここにどうやってきたかわからない、なんて言って・・・看護師さんから、息子さんときたんですよ、って言われて・・・
話の最中、リハビリ担当と思しき男性が入ってきた。ナースセンターで母の病室を尋ねたので、知らせが入ったのだろう。リハビリの進め方等々についての書類にサインが欲しいと言う。
リハビリの方はいかがですか?
ええ、順調に進んでいると思います。ベッドから自分で車椅子に乗り移ることもできるようになりました。
夜はベッド脇に簡易トイレを置きそこで済ませていますが、昼間は車椅子で自らトイレに行っています。
そうなんですか、自分で車椅子に・・・。それはそれは。早いですね。これからもよろしくお願いします。
わかりました。
(もらうものをもらい)その方は忙しそうに すぐ部屋を出て行った。
リハビリは順調みたいだね。その調子で頑張ってよ。でも先生や看護師さんの言う通りにしないとだめだよ。まだ手術してから間もないんだから。勝手に動き回って中に金属が入ったまま骨折すると金属が曲がってしまい大事故になるよ。
そうだね。でもトイレに行くにはどうしてもね。
トイレに行くのはいいんだよ。ただ、夜はベッド横に簡易トイレを置いて、そこで用を足すらしいね。昼は車椅子で自分でトイレに行くようにしているらしいね。
でも簡易トイレなんてここにはないねぇ。
だから夜になったら持ってくるって。
そう、昼間は自分で、夜は危ないからベッドのそばの簡易トイレで、ということなのでしょう。夜になれば持ってくると思いますよ。
いつごろもってくるのかねぇ。
だから、言ってるでしょう、あのねぇ、
まぁいいさ、その時になればなんとかなるさ。悩む必要はないね。くよくよしなくても、大抵のことはどうにかなる。悩むってのは脳活によくないんだよ。
脳活かぁw
あと、転院してきて食堂でお昼ご飯食べたでしょう? あの時、上右前~横の歯がぐらついて噛めなくて残した、と言ってたけど、今はどう?
う〜ん、そうだねぇ・・・
ちゃんと食べてたみたいだよ。問題ないみたい。
そうだね、全部食べてるよ。
問題あれば看護師さんに言えば色々変えてくれると思うよ。あまり柔らかすぎると食べた気がしないと嫌がる人もいるので、細かく刻んでだしてくれることもできるそうだよ。
大丈夫みたいだよ
そうね。
それならいいけど。
あと車椅子に座っているとお尻が痛くなるって言ってたよ。
そうですか。安易にクッションでも敷いて滑ったら困りますしね・・・
車椅子用の座布団みたいなのがあるんだよね。
わかりました。ちょっと調べてみます。
あと、髪を切ってくれるらしいけど、いつになるのかねぇ。
(なるほど。メールで予約を入れたあの件、相談員さんの方でしっかり対応してくれてるんだな・・・)
来月そのサービスを受けるには、今月中に予約を入れるように言われたので、もう予約済みだよ。外にも張り紙がしてあるけど、どの日の何時頃になるかは、その時になればお呼びがかかるはずだよ。
そうなの。
そうだってさ。いつもなんども同じことを聞くんだよ。いい、わかった?
大丈夫、わかりました。でも、髪を切ると言っても、そんなに伸びてるわけじゃなし、どんなふうに切ってもらおうか。
短くしてもらった方がいいよ。これから暖かくなってくるしさ、そのほうが楽だと思うよ。
出張サービスの日は廊下に張り紙がしてあったけど、大したことでもないから覚えていなくてもいいよ。どのみち、その時になれば声がかかるから。その時になればどう切るかもなるようになるでしょう。あれこれ悩むってのは脳活に良くないからね。もうその歳になったら細かいことなど気にせず、脳天気でいたほうが楽だよ。
脳天気って・・・
これは私の口癖なんですけど、歳をとったら脳天気に生きた方が幸せで、あまり細かいところに思い悩んでも仕方ない。覚えていないならそれでかまわないと思うんですよね。
脳天気って言っても、旦那さんがどうして亡くなったのかも覚えてないって言うんだよ。
難病で亡くなったんですよ。
そうなの・・・
母もその看病で結構大変な思いをしたので、そんなことも考え合わせれば、あのつらい時を事細かに覚えていてそれを思い起こし ああでもないこうでもないと悩み続けるよりは、思い出せないというのもそれはそれで悪いことばかりじゃないんですよ。
高齢になって、怒り出したり、叫び出したりする人もいる中で、脳天気だとか、忘れっぽいだとかは、いいんじゃないかなと思うんですよ。
私も歳をとったら、ああでもない、こうでもないと悩むよりは、楽天的にヘラヘラ笑って過ごしたいと思ってるんですよ。くよくよ悩んだところで何も変わらないですからね。時計の針は巻き戻せない。
確かに何も変わらない。私も主人を亡くして2年経つのよ。
そうなんですか。それではまだおつらい時期ですね。
でも、くよくよ考えないことにしてる。
そうそう、そうですよね。悩んだところで、というのもありますしね。
そうだよ。どうもならないしね。
だから、くよくよしたり、悩んだりするよりは、脳天気に生きる。
脳天気だってさ、あんた。
だから、 ああでもない、こうでもない といくら悩んだところでなにも変わらないから、母さん。その悩むということ自体が脳活にならないから。ストレスは脳活の敵だよ。今は先生・看護師さんのいうことをよく聞いて、言われたとおりにするしかないんだよ。
だってさ、あんた。わかった?
そうねぇ、わかりました。
まぁ、こんな感じですが、これからも大目に見てやってくださいな。
いえいえ、こちらこそ。
K病院から歩いて数分の幹線道路沿いにあるバス停から1時間に1本という貴重なバスに無事乗り込んだ。例によって先客はいない。
しばらく走ったところの停留所から10人ほどの女子学生と思しき集団が乗り込んでくる。いつも静まりかえっている車内が急に賑やかになる。
そうだ、今日は休日。皆誘い合わせて遊びに行くのだろう。肩身は狭いがうるさいとは思わない。明るい車内、っていうのもたまには悪くない。
生まれ変わったバスに揺られながら考えてた。
いや、病室のあの方、ちょいちょいヒヤッとする突っ込み入れてくるけど、それで大丈夫なのかな。K病院の入院患者にしては珍しいタイプ・・・。
覚えることができない、という障害持つ母に、だから何度も言ってるでしょう、というのはリスクありなのは間違いない。それでも今日うかがい見た母の様子だと、それに過敏に反応している様子はなかった。
それとなくK病院の相談員にその不安を打ち明けることは容易いが、それで病室がまた変わったところで一難去ってまた一難というのもあり得る。
認知症の人には周りが認知症の人の方がよさそうな面も(想像上)あるが、そう言い切れる確証もない。
”それ”によって受けるなにがしかの刺激が 母にとってプラスの刺激なのか、マイナスの刺激なのか・・・それもわからない。
まずは様子見か? 運命というものがあるのならこれもそのひとつとして・・・そう勝手に私は結論づけた。