実家の洋間の隅にあるこじんまりとした黒いピアノ。
母は時々思い出すようにそれを弾くことがある。
うまいわけではないが、それなりに小学校唱歌?を藁半紙調に日焼けた楽譜を見ながら弾きこなすことができる。
絵を描く、写経をする、音楽を聴く、等が認知機能にプラスに働くとよく言われる。右脳、左脳とか、脳トレとか専門的理由はともかく、日頃使わない部分を使う、というのが脳活になる、ことをいつの間にかそれが常識であるかのように私たちは知っている。
人とのコミュニケーションも、慣れ親しんだ人と交わし慣れた言葉を交わすよりは、全く初対面の人と会話をする方が脳にとってより大きな刺激となる、だろうことも感覚的に納得できる。
だから、ことあるごとにその手の話題を私は母との会話の中で振るようにしている。
「最近、ピアノ弾いてる?」と。
3年ほど前から、母には例の先生監修の脳トレ本を手始めに、塗り絵本を購入し帰省のたびに「プレゼント」してきた。
ところが、全て想定外の結末となってしまう。
それは、母の性格も相まってか、一気にやってしまい、一度やり終えるともう興味がなくなり本棚で埃をかぶり続ける蔵書の一冊になってしまう、という結末。
継続して少しずつ、というのが肝で、一気に一時期行っても効果薄、と私は後から知ることになる。それはそうだ、筋トレ同様、継続するから効果が出る。一時にとことんやっても、単に筋肉痛を引き起こすだけだ。その後何もせず何日かすれば、元の木阿弥となる。
母は、もともと花が好きで、庭仕事が好きだった。そんな母に、季節の花々の塗り絵をプレゼントしたところ、、母はすごく喜んだ。夢中になってそれをやっていた。
保管してあった娘・息子の幼少時代の使い古した色鉛筆で、一枚一枚仕上げていく。
できあがると自慢げに、ほらどう?と私に見せたものだ。
数ヶ月前、そろそろ新しいのを買おうか?と聞くと、
「いいんだけど、集中しすぎてつかれちゃうんだよね、ついつい時間のたつのも忘れて」と言う。
「一気にやってはだめだよ、少しずつ塗ってね」と新しいのを買い置いた。
帰省時、「塗り絵やってる?」と聞くと、
「ああ、やってるよ、でも集中しすぎて疲れちゃうんだよね」とあの言葉を繰り返す。
もう母はそれをやっていないんだと思う。
私がいないとき、新たな塗り絵が買ってあるのを記憶から思い起こすことがない、というもう一つの理由もあると思うが。
もし、そばで見守る人が、今日はこれ明日はこれ、と日替わりメニューのようにお膳立てすることができれば、ベストなのに、と思う。
でも塗り絵自体は、花の好きな人なら、取っつきやすい脳活素材としてお勧めはしたい。塗り絵に効果が無い、というのではない。
どうやって、”少しずつ長続き”させるか、その手だてが必要、ということ。
実はこの継続、様々な衰えに悩まされるお年寄りにとても重要なことだと思っています。
少々風呂敷が広がってしまうが、偶々目にしたNHKの番組「求められる"成果" 介護の現場で何が」。そもそもは、介護報酬制度が成果主義に変わることに関する番組だったが、その中でとある(NHKなので名称公表されず)介護施設の話が興味深かった。
群馬・高崎には全国から視察が殺到しているデイサービスがある。こちらのリハビリが高い効果を得られると評判で、1人1人が行っているリハビリの種類・時間をデータとして記録している。これまで蓄積された700万件のデータを元に解析、有酸素運動・筋トレ・認知トレーニングなど8つに分類したメニューから症状を改善するのに最適な組み合わせをはじき出している。リハビリの一貫としてシミュレーションゴルフも完備、1つ1つが楽しく行えるよう工夫している。去年は利用者の8割以上が要介護度を維持・改善ができ、新しい介護制度では成果報酬をうけられると考えられている。
つまり、それなりに個人個人を継続的にフォローしてゆけば、結果に結びつく、結果が期待できる、ということ。(ここで私の言う結果とは、新しい制度下で施設が受け取る介護報酬のことではなく、そこでサービスを受ける個人方々の能力回復/向上のこと)
個々の進捗・推移をデータベース化し、それに応じた「適度・適切」なメニューを組む。そのことが、サービスを受けるお年寄りの能力回復・向上につながった、という実例だ。
そうはいっても、それでなくとも人不足、仕事がきついと言われる介護の現場。一人一人を介護者が・・・なんてとても無理。だからこその、データベース化。何か手だてはないのか、いや、既に上記にある施設では実地されているであろうそれが、広まってゆくに障害となるものは何か、それがまだつかめていない自分がもどかしい。
認知症は発症したらもうどうしようもない、というのが今時の日本では定説となっているらしい。
正直、そうかな?と思う。